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Atsushi Kadowaki 2003

器用仕事日記

これ以降の日記はこちら(別サイト)。

 

5月31日(土)雨

 昨日、やっとYAHOO! BBのサービスを受けられるようになったので(すごく長い道のりだった)、ニフティは休会。メールはこちらへ。休会中も3年間はホームページなど保管してくれるそうだが、閉鎖されることも考えてそっくりここへ移しかえる。少しずつ修正を加えながら、基本的には保管庫としてそのまま残すつもり。YAHOOからもらえるジオシティの無料HPスペースにそのまま移行しようかと思ったのだが、ニフティではOKだったファイル名が、ジオでは使えないため、全部修正するのはナミではないと、そちらでは新しいかたちでサイトを開く予定。ちなみにまだ何もはじまっていないが、場所はここ
 これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

5月30日(金)晴れ

 「だれかの願いごとを聞いてください(ただ聞くだけで結構です)。
  そうしたら、石をひとつ、移動させてください」

 といった「課題」を設定し、川(空間)の両側に敷きつめた河原で拾った石をあちらからこちらへ、こちらからあちらへと移動させる。あるいは袋の中へ入れてもらい、それを私がもとあった場所へと戻してくる。

 「私」が何かを願うという行為は、直線的で単独的なもののように見える。願う「私」は、願う対象に対して、常に見る側に立っており、その姿は隠されている。そしてまたその願いは、決して理解されないように思う。
 ところで、誰かの願いを聞くことは、これに対して、その視線の始点と終点との間に立つことである。あるいは、その間を行き来することだろうか。その願いなるもの自体に到達することはないだろうが、少なくとも、「それは私の本当の願いとはちがう」という立場に立つことはありえない。

 

5月29日(木)晴れ

 重力、手ざわり、におい、味、音。

 比喩として、あるものがあるものを示す記号として、感覚を置きなおすことでその存在について新たな目を向けるということ。たとえば、鳥の鳴き声がさわやかな朝の訪れを、くもり空が心のありようを、死が生を思わせるような。
 何かと何かの間に相似的関係を見いだしたり、関係と関係の間に同じようなものを見いだしたりする場合、それはある種のひゆや置き換えをしている。ある風景をキャンバスの上に置き換えたり、死とどくろとの関係を絵画上に示したりすること。
 その絵画が、ある風景を置き換えたものに見えないとき、あるいは描かれたものの意味がわからないとき、視点をかえることで風景や意味が現出してくる。
 視点の変換に必要なルール。ルールによって明らかになるものを示したいのか、それともルールの存在自体を示したいのか。しかしいずれにせよ、それがどれだけの強さや美しさをともなっているか。

 仙台市内で行われる、参加しやすい(つまり選考がなくて参加費が安い)アート・イベントがざっと3つある。7月末の中本誠司アート週間、8月の仙台七夕時に行われるTANABATA..org art project 2003、そして昨年参加した10月のせんだいアート・アニュアル2003
 7月と8月のイベントは、間を2週間置くだけなので、継続的なものを提示してはどうかと思う。たとえば、石。私が拾ってきた石をまず7月のイベントで展示し、それを河原へ戻し、再び七夕のイベント時に拾ってくる。七夕は、天の川をはさんでの行事であり、願いごとをたんざくにかけるものであり、その願いは河原の石ほどもあることだろう。そして石が川の上流から少しずつ流れ、かたちをかえながらやがて海へと流れつくように、夢や願いはそのかたちをかえながらも、私たちのもとを通過し、大きな海へと流れ込んでいく。だから展示した石は再びもとに戻されねばならない。
 問題は、そんな展示(物語)にどんな説得力があるのか、ということだ。ものそのものとしての美しさや強度の感じられないただの物語りは、単なるたわごとにしか見えないだろう。

 

5月28日(水)晴れ

 最近、調子が悪いせいか、いわゆる絵画を描く気力がうせている。しかし思うに絵画制作の充実した気分や達成感にかわるものはない。
 暑くなってきたので、テンペラの卵が心配だ(アトリエに冷蔵庫はない)。

 

5月27日(火)くもり

 紙ねんどで枕木をもう一本つくる。今度は表面の形状をかなりリアルにしてみる。それは、おそらく色を塗らずにこのまま白い紙ねんどの色にしておこうと思うからで、それと以前制作した色着きのものとを対置しようと思っている。

 コーヒー豆もずいぶんできてきた。そろそろ色を塗ろう。

「コーヒー豆」 紙粘土

 

5月26日(月)くもり

 調子が悪く、ほとんど寝ていた。
 夕方、塾へ行くと途中で大きな地震が起こったので生徒を帰し、残りも休講にする。
 ところで、宮城県には20年以内にほぼ100%とても大きな地震が来ると言われている。これは40年に一度の間隔で起こる地震で、前回は私が小学2年生の頃だった。とても大きなもので、電気や水道は止まり、道路には地割れが起こり、ブロック塀が崩れ、学校が壊れてそれから数年間プレハブの教室で勉強をした。
 しかし確実に起こるとわかっていながら、それでもそこで暮らす、というのはどういうことなのだろう。第三者的立場に立つと、まったくわからない。

 

5月25日(日)くもり

 どうも最近調子が悪い。

 

5月24日(土)晴れ

 疲れた。

 

5月23日(金)晴れ

 紙ねんどの枕木がほぼできあがる。最初は不安もあったが、できてみるとけっこうそれらしい。レンガも積み上げてみるとかなり迫力がある。石膏塗りしたパネルの上で、あれこれレイアウトしてみる。なぜこんなことをしているのだろう。
 ごる(ねこ)がときどき見に来る。

 

「枕木、レンガ」 紙ねんど、テンペラ

 色を塗っていないレンガには、質感や量感が、ある意味欠けている(しかし逆に言えば、たとえば「中性的」のような言葉をあてがうことができそうな、別の次元での質感や量感を得ているが)。とすれば、色を塗ることは、それにある種の質感や量感を与えることと言える(その意味で、白いままの彫刻は白という色を塗られているのではなく、「無色」なのだと言える)。では「実物」の方を白く塗ったらどうなるのか。
 何かが「ざらざらしている」とか「重たそうだ」というとき、それはそうしたものが普遍的にあるのではなく、そのように知覚するための約束事のようなものがあって、それを通して私たちは「ざらざらしている」とか「重たそうだ」と言う。

 

 

 あれこれやってみるが、結局紙ねんどであろうが実物であろうが、私はこうしたもの(レンガや木)がただ単に好きなだけなのかもしれない。だからただ単純にそこにあるだけで「いいなあ」と思えるのだ。しかしそれを「作品」とは呼ばないだろう。では私は何をそう呼ぶのか。

 

5月22日(木)くもり

 つくっている紙ねんどの木やレンガ、石について、「住まうこと」のような物語を考えてみる。いや、どちらかというと「建てること」だろうか。木、土、石は建材として、もっとも基本的で古い材料だと言える。あるいはそれぞれを用いて世界地図みたいなものをつくることもできるかもしれない。「だから」私はこれらのものを作ってみたのです、というように。とても説得力がない。

 色を塗ったものと塗らない紙ねんどの枕木やレンガを並置してはどうだろう。あるいは途中まで塗ったもの。

 

 

 

5月21日(水)晴れ

 「何のため」が問われない、問われるとすれば、従属的なものとして、理由の形式をしていながら、その実それをより説得的に見せるための戦略に過ぎない、つまりなくてもいっこうにかまわない、そうした物語(というより物語がそういうものだ、と言いなおすべきだろうか)。AゆえにBではなく、Bがあって、「Aゆえに」があとづけされる。何か「意味」が見つからないとき、つまりAを見つけようとしているとき、そのことを思う。

 

5月20日(火)雨

 よく寝た。

 

5月19日(月)くもり

 風邪をひいて寝ていた。

 

5月18日(日)晴れ

 仙台市青葉区台原にあるワッツ・アート・ギャラリーに行く。そこは妻が生まれたときから高校時代までを送ったところで、ちょうどその昔の家があったというななめ向かいがギャラリーである。
 展示されていたのは、A4の紙が人間の背丈ぐらいに重ねられたものが10くらい。床にも紙が敷き詰められている。ギャラリーは入り口が2階といった具合になっていて、入ると展示を見下ろすかたちになるのだが、これがなかなか思い切っていてすばらしいものに思えた。そもそも白いその棒状のものが立っている姿は、差し込む光に影をつくり、実にシャープな形態をしている。これだけの紙を使ったら、いったいいくらかかるのだろう、とか、どこかすごく「無駄」な気がする、などと思いながら、そう思うのはそれが「事務用品」つまりレディ・メイドの作品であって、たとえば石や石膏でできていたらそんな風には思わないのかもしれないと自分の狭量を思いやる。
 しかしその形態の説得力はどうだろう。もう私には何ひとつ必要ないように思われる。だがやはりこれだけのことをするには、ただ「美しい」では済まないらしい。「物語」があって、その積み上げられた紙の高さは、人の身長(作者は会ったこともない人物たちらしい)なのだそうだ。床に乱雑に敷き詰められた紙には、センチメートル単位のいろいろな身長と、ときおりそれに名前や職業、人物像が入ったプロフィールが表示されている。
 これが作家の作った「物語」なのだ。彼にはそれが必要と思われた。しかし作品はそれなしですでに完結している。そして、ひとのことを言うのはとてもたやすい。

 ギャラリーの近くには猫がたくさんいて、長いこと呼んだがしかし近くまでは来なかった。

 

5月17日(土)晴れ

 疲れた。

 

5月16日(金)くもり

 CDラベルがなぜかなつかしいと思っていたら、扇に似ているのだ。

 

つくってみたCDラベル

 今日はずいぶん作業が進んだ。レンガふたつと枕木、板の下塗りなどをする。と、こう書くとあんまり進んでいないことに気づく。

 いくつかの写真をモノクロやカラーで拡大コピーする。セブンイレブンのコピー機がいちばんいい。それらをながめていると、現場でのスケッチとはまた別に、風景画を描く意欲がわいてくる。カメラとコピー機を通したその像を再現したい、というぐあいに。

 

5月15日(木)くもりのち雨

 少し前から思っていることがあって、それは拾った古びた板の上に石膏を塗り(つまりかたちを仮り)、その上に板を描けば、私は平面を塗るだけですむのではないか、ということなのだが(それなら紙ねんどで、慣れない上にめんどうな支持体をつくらずともすむ)、しかしそれはとても冒涜的なことに思える。年月と風景とがつくりだした(ように見える)味わいある板の上を白く塗り、その上に私の稚拙な絵を、それも私がそうして「消した」のと同じ板の目を描こうとすることには、何かとても重要でせっぱつまった理由が必要に思える。しかしこれが新しい板なら何の問題もない。新しい白木の板を買って来て、これに石膏を塗り、まったく同じような白木の木目を描き入れ、それよりも大きめのパネルにでもはって展示することには、何ひとつ理由などいらないように思えてしまう。

 あるいはどうだろう。拾い集めた古びた板の半分だけに石膏塗りをし、そこに石膏を塗っていない、つまり自然が描いた板の目の「つづき」を描く。ばかげているだろうか。

 つくったカタログをCD−ROM化しては、とクレイ・アルファに提案していたのだが、配布先からも要望が出たらしく、つくりに行く。せっかくなのでラベルもつくることにする(「ジャケット」もつくろうと思っている)。フリーウェアをダウンロードし、けっこうそれらしいものができる。すると私はもう頭ががんがんするほどに自分もこの丸いドーナッツ型の中に何かをつくって展示したい誘惑にかられる。おそらくいるのだろう、CDのジャケットやらラベルという世界に住むアーティストが。

 

5月14日(水)晴れ

 5万分の1の地図を買う。東西に2枚、仙台市から宮城県と山形県の県境まで。私が石を拾いに行く広瀬川と名取川のほとんど源流から河口までが含まれている。 「願い」を書く石(5/12の日記参照)を拾いに行くポイントを、上流から河口までの間でいくつか選び、それを地図中に表示しようと思ったのだが、見ているうちに、「願い」ならば、いや「願い」でなくとも、上流から拾おうと思う。そしてそれをもとに戻す。やがていつの日か、それらの石は下流へと流れ着くだろう。かたちを変えて。
 ところで、この石に「願い」を書くというアイデアは七夕から来ているのだが、別に直接書く必要はないのではないか。たとえばその石が「それ」と認識されればいいわけで、それはある星に祈るのと似ている。あるいは神に(神は普通名詞であるとともに固有名詞である、あるいは固有名詞となる)。そうしたルールの中に入った者は、それらひとつひとつの石を、他の石とはちがう「この石」として認識し、その意味(願い)を認識するだろう。あるいは「だれそれの石」と考えるかもしれない。複数の人によって。それはその人の、あるいはそれらの人の願いを乗せているわけだ。だとすればすでにその上には、何らかの文字が書き込まれていると言えるのではないか(甘いだろうか)。認識するための技術的な問題として、何らかの記号を考案してもよい(たとえば+、C、◎、→など)。そしてその写真(あるいは絵、つまり肖像画)と、それが存在する(私が拾ってきた、そして戻されるだろう)場所を示した地図。
 ここまで考えてきて、私はふとsawada yamamotoさんの石のプロジェクトを思わずにはいられない。その奥に秘められた物語の複雑さと作品自体のシャープさに、私のこのアイデアは及ぶべくもないが、小説を書くことでよい小説家になれなくともよい読み手にはなれるように、私はこの自分の「プロジェクト」を通して彼女の作品の真価を改めて発見するように思う。つまり、彼女の用意した300個の石が、「この石」となる手前に立ち止まっているということ。存在のみを示し、それが何であるか(「愛」であることが作家自身の口から語られはしたが)が一歩さがっていること。
 「願うこと」は「愛すること」に似ている。誰かの幸せを願うことはもちろん、自分の幸せを願うことや、ひとの不幸を願うことさえも、結局は愛することの内にあるように思える。
 また、「願うこと」は「想像すること」にも似ている。「争いのない世界を想像してみよう」という言葉は、それを願うことを含意している。
 また、「願うこと」は「愛すること」にくらべどこか弱々しげで、「想像すること」にくらべて主体的(?)な感じがする。しかしどうだろう。願うことしかできない、というとき。

 大きめの石の絵を8号のパネルに4枚ほど描き、いっしょにその「モデル」となった石を、それと出会った場所、日時、できればそれをうつした数枚の写真とともに展示する。するとその石は「この石」になるだろう。そしてもしそれをもとの場所に戻し、ほかの石と区別できなくなったとしても、それはやはり「その石」でありつづけるだろう(そしてそこではもうすでに「願い」などという道具立てすら必要ない)。しかしするとそれは、結局のところ私がこれまでやってきた石の展示とどこがちがうのか。

「木」 テンペラ、パネル サムホール

 先日(5/7)に作った(描いた)木をパネルにも描く。2mの板を拾う。ごる(ねこ)が途中で逃げてたいへんだった。

 

5月13日(火)晴れのちくもり

 スケッチに行く。どんどん葉や草が生い茂り、景色が変わっていく。やがてすぐに入れない場所が出て来るだろう。


「スケッチ」 水彩、紙 F8

 川は水が流れている場所を指す言葉で、流れがとまっていれば別の言葉で呼ばれる。

 1.2mの枕木をつくる。紙ねんどで。昨日は90cmの板をつくった。乾いたらテンペラで着彩する。これら一連のものはその生成の仕方からして彫刻というよりは絵画に近いものなので、あまりかたちを精巧なものにせず、フラットな平面でもってつくり、それにテンペラで描き込むことでリアル感を出したいと思う。
 ところで枕木は、その上を列車が通るものである。列車はいわば流れであり、乗客や積荷はその上を流れるもの、枕木はその川底である。
 タールのにおいが部屋にひろがる。

 作り手、伝え手。
 別に、ふたつに分けるのが主眼ではないのだが、作り手であるだけでなく、あるいは作り手であるよりも、伝え手であること。

 

5月12日(月)くもりのち雨

 七夕祭りにおける展示案
 毎朝私が川(上流)へと石を拾いに行く。そしてそれを街へと運び、展示する。それを見に来た人に、たとえば七夕(仙台七夕は東北三大祭として有名)のたんざくがわりのようにして、チョーク(など雨で容易に消え、あまり害のないもの)で何か書いてもらう。書いてもらうのは、やはり「願い」がいいのだろうか。私はその石をもとの川へと返して来る。そしてこれを繰り返す。展示会場に地図をはり、川のどの辺りにその「願い」があるかが示される。街、たとえば仙台市を流れる広瀬川は上流のその川とつながっている。願いは星の数ほどもあり、石もまたあまたある。七夕の天の川は私が石を拾いに行く川に比せられ、私が運ぶ石は星である(星となる)。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

 

5月11日(日)晴れ

 昨日もらってきたモデムを設置するが、「リンク」のランプがつかない。そうこうするうち(すごい時間がたっている)なぜかニフティで接続できるようになる(むろんいろいろやったのだが)。この不自由な二ヶ月はいったい…。

 川、流れ、つながり。上流から下流へ。
 想像するなら、いくらでも大きなものをつくることができる。

 出会いが、いつも先送りされていく、ということの不思議な感覚。

 

5月10日(土)晴れ

 疲れた。ずっとネットに接続できないのでひとにすすめられたYAHOO BBというのに入ろうと思って例の赤いスヌーピーの紙袋に入ったモデムをもらってくる。疲れたので明日やろう。

 

5月9日(金)晴れ

 山形県山形市にある山形美術館へ日本画の展覧会を見に行く。たいへんよかった。おそらく時系列的に並べてある展示が、やがて「遠近法的」世界へと収縮していくのを見るのは何かさびしい感じがした。
 私が安定している、と思う絵は1:2.5の比率のものが多いようだ。50号の絵で言えば、P50号を横に二つ並べる必要がある。

 山形の通りで、とても素敵なパン屋を見つける。白木をふんだんに使い、テーブルもすべてうっすらとした、春のくもり空のような。白木のもつ純朴さ、のようなものをつくりたいと思う。木製パネルの側面にもすべて石膏を塗り、側面までテンペラで仕上げてはどうか。つまり白木の板として。

 

5月8日(木)くもり

 誰が語っても同じ言葉は同じ内容をもっている「はず」といった考え方には、とても無垢な情熱を感じ、心ひかれる反面、そのあまりの素朴さに含まれるかたくなさも見逃すことはできない。「誰が語るのか」という言葉は(どんな文脈で発せられているのか私はよくは知らないのだが)、そういう意味でいい悪いという次元を超えている。それはどちらかと言えば、その言葉に対する倫理性のようなものというよりは、思いやりとか思い入れといったたぐいのものだと思う。
 たとえば、建築家ルイス・カーンが「レンガは何になりたがっているのか」という場合、それはアメリカの高名な建築家であり、思想家であり、数々の偉大な建築をものしてきたカーンという文脈ぬきには(それが性格に「彼」を表わしていないとしても)あまり意味をなさないだろう。別に私はカーンというブランドが大切であるとか、ブランドがなければ意味がない、ということを言っているのではなく、そうした文脈で語られることにはある種特別な意味がある、といういわば当たり前のことを言っている。つまりその文脈とは、「誰が語るのか」をあたかも無色のように思いなしながらも、すでにその「物語」生成に巻き込まれ、参加し、支えていく「私」のことであり、その中でこそ、それぞれが魔法のような力を発揮するようなフィクションやイリュージョンに対しての自分の距離感のようなものと自覚的に接していく、ということなのだが、それはどこかそうしたあいまいな感覚でしかとらえられない関係を結んでいるように思う。
  建築に関する、特にタイルに関する雑誌のたぐいを多く読んでみて気づくのは、タイルといういわば建物の表面を覆い隠す「表層材」(それは地震の多い日本において、ほとんど独自の発展をとげてきた建築素材なのであるが)を使うことへの「罪悪感」のようなもの、それを使うことには何か「合理的」な理由が必要であるかのような発言(たとえば「構造が仕上げ材を決定する」)である。
 しかしそうした単一の、どこにあるとも知れぬ夢物語的な「合理的」説明、世界を一手に引き受ける「一般法則」のたぐいのうさんくささ、恣意性への批判から、建築においてポスト・モダンが、他のどんな分野にも先駆けて起こったのではなかったのか。
 そもそもほとんど「機能」を有しない絵画において、「表層材」たる絵具が支持体であるキャンバスなりパネルなりに置かれる合理性を問うことは、あまりにばかばかしい。ましてや絵画のフィクション性を否定することは、絵画自体を否定するようなもので、何がなくてもそれだけはなくてはならないもの、物体としての絵画がなかったとしても、フィクションとしての絵画性だけは存在しなくては成立しないものこそが、芸術という「フィクション」=「物語」だろう(いちおう、私が言っているのは「この絵には物語が感じられる」というように使われる”物語”ではなく、「それは土に卵をまぜたものを木の板に塗ったものではなくて、「絵画」と呼ばれるものです」ということを私と他者との間に成立させる「物語」のことである。以下これを括弧つきで表記)。
 しかしそうして他人の言葉を指差すことはたやすい。私なんてその絵画において「合理性」を求めようとしていたのだから。
 ということで話をカーンに戻すと、たとえば『土佐日記』を書いたのは紀貫之という男性であることが、今日では知らぬ者もないくらいに知れわたってしまい、そこにただようはんなりとしたフィクション性のようなものはみじんもない。これでは正直興ざめである(しかし逆にそうした著者と作品に関する設定こそが「物語」をもって迫ってくるのはおもしろい)。
 あるいは私は詳しくは知らないのだが、かつてはやった『一杯のかけそば』という話。それは実に心あたたまる話らしいのだが、筆者に何らかの「問題」が生じたらしく、人づてに聞いた話では「(あのとき話を読んで流した)涙を返して」という声すらあったらしい。そこにあるのは、「心あたたまる話は心あたたたかな人に書いてほしい」という(何ともうんざりはするものの、わからないではない)切なる思いである。しかしそれはある意味、いい悪いの問題を超えているものなのだ。
 つまりそれは安易に想定される道徳的な問題ではない(たとえば「合理的」な説明が要請する構造と合致していない「表層材」を使うことは「建築家としての倫理」に反するとか、ひらがなは女が使うものだから男が使うのは「自然の摂理」に背くものだとか、心あたたまる話は「人格者」が書くべきだ等)。それは勝手に想定した
倫理規範や道徳を、それを受け入れるかどうかもわからない他者へとつきつけたり、その他者の前で悪がって見せたりするようなもので、つきつけられたり見せつけられたりしてもそれを倫理規範や道徳だとも思っていない者の前ではただただこっけいなだけである。
 もしもそれが普遍性のようなものをもつとしたら、それは「他者」をも引き込むような「物語」をもっていなければならない。そしてもしかしたら、ブランド等の装置のためにその言葉があるのではなく、その言葉のために「物語」装置が用意されたのかもしれない。

 

5月7日(水)晴れ

 グレーとオレンジのレンガをつくる。紙ねんどの小さな木と石もできあがる。少し長い棒をつくりはじめている。石の絵を描く。作業をつづけながら、自分には何ひとつできないような気がしている。

「木」 紙ねんど、テンペラ 奥左はお手本の木

 

 

「石」(左)、「レンガ」(右) いずれも紙ねんど、テンペラ 奥はねるごるねこ

 ホフマンレンガについての文章を書く(こちら)。

 またテンペラの顔料の空きビンが集まり始めたので、その中に例のコーヒーとマッチ棒(いずれも「過去」(コーヒーのだしがらとマッチのもえさし)と「未来」(ひいたコーヒーとすっていないマッチ)を入れてみる。いずれ新たな「ギフト」としてみんなにあげよう。

ギフト第二弾

 

5月6日(火)晴れ

 DIYショップで買った枕木は、タールのものすごいにおいがする。ちょっと失敗だったかもしれない。折からの天気のよさと空気の乾き具合も手伝って、ゆっくりいつも目の届くところに置いてながめる、といったことを許さないほどである。これは香りという点でコーヒー以上に、というかまったくちがうレベルで、強烈なものをもっている。私が作る紙ねんどの枕木にも、こうしたにおいは染み出してくるだろうか。

 

5月5日(月)晴れ

 「レンガはいったい何になりたがっているのか?」――ルイス・カーンのこの言葉が、どのような文脈で提起されたのかはわからないが、それをすでにどこかにある「答え」を「発見」しようとする営みとしてとらえるならば、それは物語探しの迷宮、それも不毛なそれへの入り口でしかないだろう。「答え」はまさにそれが「答え」となったその瞬間にそう呼ばれるものの名前であり、ということはそれは常に一回ごと「発明」されていくものであろう。何かを説明する単一の世界を想定することは、確かに大きな魅力ではある。しかしどんな説明も、意味も、答えも、並置される物語のひとつでしかありえない(そしてどれもがひとつの物語の系をもっている)。

 先の個展のとき、毎日、制作しながら飲んだコーヒーのだしがらをひとつにまとめてためていったのだが、今度は日付をつけて、その日に飲んだものをひとつひとつポストカードを入れるビニールに入れて集めていくことにする(写真下左)。また、紙ねんどでつくるコーヒー豆を、1日20粒ずつと決め、毎日制作することにした(写真下右)。

 

 紙ねんどが少しずつ集まりだした。やっと板をつくれるかもしれない。

 

5月4日(日)晴れ

 近くのDIYショップで枕木を買う。780円だった。これを紙ねんどでつくろう。すごく意欲がわいてくる。それまでけっこう意気消沈していたのだが。

 もうひと月近くごる(ねこ)と行動をともにしている。だいたいいつもいっしょに車に乗って出かけ、いっしょに絵を描き、帰って来る。ロード・ムービーみたいなのができそうだ。

ねこやレンガが転がり、絵画アトリエという感じではなくなってきた

 

5月3日(土)晴れ

 ひさしぶりにむかしの生徒で今は美容学校に通うYojiくんをさそって山へ行く。滝を見たことがないというので私がよく行く滝へと連れて行く。少し調子に乗って岩の間を飛び跳ねていると、胸のポケットに入れていた鍵一式が淵に落ちてしまう。落差があって水が大量に流れ落ちており、白い泡で底もまったく見えない。最後にはパンツになってもぐってみたのだがまったく見つかりそうにないのであきらめ、ふたりで車をおいて人気のあるところまで行こうとして歩き出したところへ、地元の農家の方が通りかかって車で私の家まで往復してくれ、車のキーを取ってくることができた。まったくありがたいことである。
 ということで、今日はレンガをひとつこねただけで終わってしまったのだった。

 

5月2日(金)晴れ

 とりあえず昨日の計画がどうなるかわからないが、レンガを作り始める。
 80号の絵を2つ計画している。スケッチや下絵はすんでいるのだが、かんじんのパネルや石膏を買うお金がなかなか手に入らないので計画段階で足踏みしている。しかしこうした時間は本当は必要なのかもしれない。

 

「レンガ」 紙粘土、テンペラ

 

5月1日(木)晴れ

 先日、クレイ・アルファで行った左のようなレンガを使った展示を発展させようと思う。レンガをすべて紙粘土にテンペラを塗ったものでつくり、五角形のかまど型のものをふたつ並べて設置する。一方には私がこれからアトリエで飲むコーヒーのだしがらを入れ、もう一方には毎朝、前日焙煎されたコーヒー豆がお店の人の手によって運び込まれる。最初は毎朝お店から運ばれて来たすばらしくいい香りのコーヒー豆を、訪れる人にひいてもらい、もう一方のかまどへと入れてもらう、というのがいいなと思い、それがベストではないかとも思うのだが、においの出る展示を禁じる会場も多いので、袋に密封されている豆とだしがら、というのもかえっていいかもしれない。
 しかしそう考えると、なぜレンガとコーヒーなのかよくわからない。どうしても私にはそうなるのだが、たとえばレンガだけ、コーヒーだけ、ということでも作品は成立するように思えるし、かえってその方がシンプルでいいかもしれない。たとえば毎日飲んだコーヒーのだしがらを乾かしたものを、小さなビニールに入れて日付を付し、かべにピンではりつけていく、とか。むろんまだ飲んでいない「未来」としてのコーヒー豆の配達は重要であり、行われなくてはならない。あるいは1メートルほどの大きなレンガを3つくらいつくって彫刻のように並べるとか。
 しかしあのコーヒーの色とレンガの肌合いのなんと似合うことだろう。それは思うに、どちらも「火のわざ」であることから来ているようにも思う。コーヒー豆は火を通してすばらしい香りと色とを得、レンガは固さと色、質感を得る。火がなければいずれも生で、おいしくないし、もろい。

 

 

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