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Atsushi Kadowaki 2002

器用仕事日記

〜2002年12月〜

 

12月31日(火)晴れ

 アートのかけらもない年の瀬。何かが常に継続している、というのは大事なこと、というより望ましく、願わしいことである。
 とりあえず、これで今年も終わり。来年もがんばろう。

 喪中なので新年のごあいさつは遠慮します。

 

12月30日(月)晴れ

 ひさしぶりにアトリエへ出かけ、長谷川資朗氏から個展の案内が来ているのに気づく(くわしくはこちら)。

 どうも最近おつかれ気味。猫らといっしょにゆっくりしようともくろんでいる。

 

12月29日(日)晴れ

 神経質な人や心配性の人に、神経質になるなとか、心配するなとか言っても無駄である。するとそうでない私のような人間は、神経質な人や心配性な人より損をしているのか、とかいう無邪気なことを言いたくなるが、それは全くばかげた発想であろう。まぁ、君には関係ない、みたいに言われると多少頭には来るが。

 

12月28日(土)晴れ

 寮生活を送りながら、長崎の学校に行ってる子どもがいて、休みのたびに私の塾に来るのだが、彼ももう高2である。私にはもう教えることもないのだが、好んでやって来てはいっしょに勉強するのだが、彼を相手に語りながら、言語の習得や意味について、やはりそれを「教える」という視点から考えること、たとえばウィトゲンシュタインについて柄谷行人が読み込んだようなこと、いやそんな堅苦しいことを言わずとも、自分が何かを「知っている」ということがどういう意味をもつのか、ということは、ひとに伝えようとするときに立ちあらわれてくる、というようなこと、そういうことに改めて思い至らされる。それを語る自分を自分の背中からながめるような、そんな視点が、「教える」という中には含まれている。決して特権的な地位という意味ではなく。

 

12月27日(金)くもりときどき雪

 塾もあと少しで休みだ。がんばろう。今日も早く寝るべし。

 

12月26日(木)晴れ

 風邪気味。ずっと塾の冬期講習で忙しい。

 

12月25日(水)晴れのち雪

 ホワイト・クリスマスである。

 

12月24日(火)晴れ

 クリスマス・イブだった。

 

12月23日(月)晴れ

 今日から冬期講習。しかし生徒が少ないので夕方前には終ってしまう。
 仙台市博物館でやっていたネイティブ・アメリカンのキルトなどを中心とした工芸展を見る。あんまりよくわからなかった。
 とにかく今日は街中は混雑していて、バスに乗るのもひと苦労だった。しかしそんな中でも本を読んでいるといらいらすることもなく、待ち時間を有意義に過ごすことができる、という気がする。結局はそんなの幻想に過ぎないのだろうが。

 

12月22日(日)晴れ

 実によく晴れた冬至の日であった。

 最近、誰と話しても、結論は同じようなところに落ちつくような気がする。すると私は奇をてらって、あまのじゃくなことを考えたりしたくなるが、どうにも重苦しい雲のようなものが私の上をおおっていて、そうしたことをする気をくじいてくる。しかしこれはいいことなのかもしれない。つまり大人になってきた、ということか。

 

12月21日(土)晴れ

 今日はよく労働した。やっぱり笑いは状況を救う。何とかせねば。

 

12月20日(金)晴れ

 妻を送って行った帰りに古本屋で、宮城県美術館で行われた菅野聖子の回顧展のカタログを手に入れる。コラージュのつづき(こちら)。1冊のノート(下図)にまとめているのだが、もうすぐすべてのページが埋まる。

コラージュのノート

 

12月19日(木)晴れ

 再びアトリエの裏の山へ。山道に降り積もった枯葉の絵を描いていて、あまりにヘタなのでうんざりする。いくつか素朴なアース・ワークを行う(たとえばホウの木の葉を足跡みたいに道に並べたり)。この前沼にいた白鷺たちは今日は1羽しか見かけない。帰ってコラージュのつづきをする。

 

12月18日(水)晴れ

 以前バイトをしていた出版社へ。『仙台っこ』という雑誌を出しているのだが、2月号の表紙にこの絵を使っていただくことに。以前バイトしていたころは黙々と働いていたのだが、ここのところ、個展も終わり、いろいろと片付いてきた上に、最近お笑いづいているのでつい饒舌になり、何かイメージがちがったかもしれない。その出版社で請け負っているという『まいぷれ(仙台版)』にもリンクをはり、ときおりサクラとして参加することを約束して帰る。

 夜、このところ塾の宣伝活動(塾のちらしのポスティング)を行っている。1件ずつポストに入れていくのだが、知り合いからはめんどうだから折込広告にしたら、と言われたりするのだが、自分で入れるととにかくお金がかからないのでやっている(私はこの方法で今いる塾生のほとんどを集めた)。
 しかしたしかにただの広告ではつまらないかもしれないが、塾で毎月出している『杜の教室通信』(先生からのお話や4コマ、塾でのおもしろい話題などを載せたほのぼの手書きのプリント)の特別版のようなものを塾の宣伝として、春先にばーんと新聞折込にしたらおもしろいかもしれない(生徒が集まるかどうかは別として)と思いつつ、夜道をうろうろしていたのだが、はたと思い当たった。それはすでにアートではないかと。つまり、宣伝広告と見せかけて、アートを新聞折込にして家庭に配る。内容はまだ考えていないが、これはけっこう面白いかもしれない(やるかどうかは別として)。寒い夜もこうして熱くなるのだった。

 

12月17日(火)晴れ

 sawada yamamotoさんから石が届く(詳しくはこちら)。きっともっと早く着いていたのだろうが、アトリエに行くのがひさしぶりだったので。

sawada yamamotoさんから届いたブツ

 アトリエの裏の山(広大な公園になっている)を散策する。今度は葉や木切れを描こうと思っているので探しつつ歩く。
 スケッチなどに行くと私にはよくあるのだが、絶妙なタイミングで誰もいそうにないようなところに誰かがやって来て妙な雰囲気になる。今日も嫌な予感がして用心していたら、いきなり、やはりである。近くで道路工事をしているのだが、ほっかむりをした工事のおばさんが山の入り口へと消えて行った。どう考えても今から散策に行く様子ではない。しばらくその辺をうろうろし、携帯を調べる、などしらじらしいヒマつぶしをしていると、少ししておばさんが戻って来る。そう、なぜかその私が利用しているさわやかな入山口は、近くの道路工事の方々の天然の野外トイレになっている(つまり適当なところで用を足している)。仮設トイレくらい置けよ、と思うのは私のようなヒマ人だけなのだろうか。

白鷺。何とも美しい。いずれこれをもとにテンペラを。

 アトリエではなぜか拾ったばかりの葉や木切れを前に、全然関係ないコラージュをはじめる(こちら)。まぁ、そういうことはよくある。

 

12月16日(月)晴れ

 すっかりだらけている。こんな時は、と『クロマティ高校』を読む。本はゆっくり読むくせがついているので、まんがとは言え、じっくりと反復読みをしながら読んでいる自分に気づき、結局今日はこんなに時間をかけたのに2冊しか読めなかった。おそらく子どもたちなら20分もあれば読んでしまう量だ。つまりは「慣れ」であることが、これでわかる。今度、勉強の能率が上がらない、という相談を受けたらこの例をあげてさとしてやろう。

 さる方から受け取ったメールをきっかけに、以前水彩でやったグレゴリオ聖歌のシリーズ(こちら)をテンペラで再現してみようかと思う。中村弁護士もあれいい、と言ってくれてたし。

 今日から榎並和春氏の個展(こちら) が行われる(銀座・ギャラリー・惣 TEL03-5565-6039)。

 

12月15日(日)くもり

 すっかり日曜日のような日曜日を送る。買い物をしたり、妻の実家で食事をしたり(作ったり)。

  Dec.2 をアップ。

 

12月14日(土)晴れ

 とてもいい天気。月が見える。

 土曜日と言えば朝9時から夜9時半まで塾で教えていて、とってもたいへんな日なのだが、最近生徒がめっきりへって(時間だけは減らず)、とても楽になってしまった。
 男の子の間で『魁! クロマティー高校』(野中英次著)というまんががはやっているのだが、絵が、なんと言ったか昔『クライング・フリーマン』とか描いてたすんごく絵のうまい漫画家に似た劇画タッチの絵で、しかもギャグまんがという。ついつい5巻すべて借りてきてしまう。
 この漫画のおもしろさのひとつの型は、たとえば不良学生同士が敵対している高校に焼きを入れる、とかいうミーティングをしているさなか、もっともその中心にあるべき人物(番長など)が、ついついほかのことばかり(たとえば深夜番組への投稿など)考えていて、しかし表面上はまわりから真剣そのものと受け取られていたりする内面と外面とのギャップである。そしてそれを支える確かな人物描写(絵がすごくうまい)。
 しかし何よりおかしいのは、「この人、絵がうまいね」と言っても生徒たちはピンときていないようで、リアルな劇画よりもきれいなイラスト風の絵の方がうまいと思っていることだ。これこそもっとも不可解なギャップと言える。

 

12月13日(金)くもりときどき雪

 積んである藁くずを描く。いつかこれも100号くらいのテンペラにしたい。描いている紙の上に、大粒の雪が降ってくる。

水彩、紙 F8号

 ふとこんなものを描く。これも1枚50号くらいの、しかしできればすんごくでかい画面に描いてみたい。しかしそれもちょっと難しいから、とりあえずサムホールにでも描こう。

トリコロール

 仙台の並木通りの並木に設置された膨大なイルミネーションは、そのゆらぐ様子が美しい。それは光が動くことで、木の動き、風の動きを表わしている。それも夜の闇の中で。同じように、カメラが捕らえ、印画紙の上に焼き付けられた光は、その時間の光を表わしている。たとえば1/120秒の、そのものが発する光を描いている。それはイルミネーションがかたどる木や風のかたちと同じように、私たちの眼にする風景をかたどっている。

 

12月12日(木)晴れ

 とてもよい天気。昨日スケッチしたのと同じ場所でスケッチをする。昨日けっこううまくいったので。天気がよく、昨日よりも長く描ける。しかしどんどん雪が目のまえでとけていき、しずくとなって流れていくので少しあせる。結局信じられないほどひどい絵しかできず、退散する。よくあることだ。

 東日本メディカルシステムのカレンダーができる。信じられないほどすばらしい出来で、これは企画の勝利と言える。描いたのが私であることを忘れるほどに気に入ってしまう。装丁等あれこれ企画した社長さんも、このこういった工夫がいいでしょう、これなんかどうです等あれこれあげつらね、私もこれはいいですよ、信じがたいほどに、ここなんかねぇ、などと話していたのだが、ふとそのすごい自画自賛する姿に気づいてふたりで笑う。

 夜、自転車で帰るとき、仙台で恒例の「光のページェント」を見る。そういえば今日から始まったのだ。ものすごい浪費だ、と思うものの、こうしたものにお金を投ずることができる人たちが、私のような赤貧洗うがごときものの目を無償で楽しませてくれる、という風に考えると、それはいいことなのかもしれない。とても寒い心持ちで、実際寒い中を走らせていたのだが、そう考えるとやや温まるような心持ちになる。不思議なものだ。

 

12月11日(水)くもり

 脱力。始めなければならないことが多いのだが(仕事探しとか塾のちらしまきとか)、何もする気がしない。
 午後、雪の絵を描きに行く。これはよくあることなのだが、いつも通る場所が突然素晴らしく見えてくることがある。1時間も描くともう指が動かないほどにかじかんでしまう。最終的には80号くらいのテンペラにしよう。小屋の中の細かなもの(道具類やペンキの缶、一輪車や何か)をていねいに描いて、暗がりの中に浮かび上がらせよう。そして幻惑するような妙な構図、キュビズムほどではないにせよ、首を回さないとそうは見えないような視点で全体を描きたい。できるだろうか。それが緊張感をもって、楽しい。

よく通る場所にある小屋のスケッチ 水彩、紙 F8号

 

12月10日(火)雪のち晴れ

 雪。とても美しい。
 個展の写真をアップ(こちら)。あまりにいろいろなことがあったので、かえって何も書けない。
 夕方、せっかくの雪なので何か描こうと外へ出かける。しかし日がかげったとたんにパレットの水が凍ってしまい、色が塗れない。後で聞くと、今日の最高気温は仙台で0.1℃だったとか。
 ふと思いついてスケッチブックの上に絵具をたらし、これが凍るのをながめる。少し前、テンペラを塗った石膏パネルに雨を受けとめ、雨を描いてみたが(こちら)、それはその日、その時の数秒間の雨を取り込んだわけだ。そして今度は、今日、午後4時過ぎの田んぼの中の温度を、紙の上に受けとめる。あまり水が多いと持ち帰った時に解けて流れてしまうようだ。もう少し研究が必要。とりあえず今日できたもののうち、うまくいった2点を下に。

「摂氏0℃ 2002年12月10日午後4時」 水彩、紙 8号

 ひさしぶりにアトリエに行くが、あまりに寒くて手がかじかんでしまい、ほとんど何もできない。

 何か自分が、いつも悲しげでなくてはならないような気がする。ばかばかしい。

 

12月9日(月)くもりのち雪

 何から手をつけてよいのかわからず、とりあえず義父の葬儀に際して来訪者に配った俳句集を(こちら)。
 そのうち個展で思ったことをまとめたいと思っています。

 

12月8日(日)くもり

 とてもめまぐるしい1週間でした。
 個展に来てくださった方々、直接会えた方も、そうでない方も。ふれあうということの素晴らしさには、毎回とても目を見開かれていきます。見る視線と見られる視線、という捉え方をいとも簡単にこえて、私たちはふれあうことの素晴らしさを共有することができるということ。そのための生であり、行為であると思います。
 しかしそうして私が作り上げ、用意した時間。見る人に気に入っていただいた絵(そうでないものも)を磨きあげるために私が打ち込んだ時間は、結局は私が家族と共有する時間、たとえば亡くなった義父との昼食会等の時間を削って作ったものであるということは、迷いながらも、ただそういうものとして、引き受けるべきなのだと思います。誰かのためにする何かが別の人に対してそれをしないこと、ある人に対するプラスが他の人にとってのマイナス、といった捉え方をしたくなる誘惑に抗し、そう思えてしまうこと、あるいはそう思わされ、そう思わないことが背徳的であるような気にさせられる一連の、いわば「踏み絵」のような状況について、それをそういうものとしてあえて踏む勇気をもつべきなのだろうと思います。願わくば、曇りなく一方を断罪できるようなよどんださわやかさこそが、衰え、打ち捨てられんことを。
 本当にありがとうございました。

 

12月2日(月)晴れ

 今日、午後1時に義父が亡くなる。私はそれを3時過ぎに知り、急ぎ帰仙。おそらく6日と7日は会場に顔を出せるのではないかと思います。もし会場を訪れる方がいれば、どうか私にかわって何かを発見し、それを私におしえてください。今回は絵がただ自らを主張するだけでないものを、と思っていました。そしてそうするには、それを見守る視線がぜひとも必要だと思っていたのです。
 以上、とりあえず。

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