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2月28日(木)雨
今日で2月も終わり。とてもやさしい雨が降っている。
最近、コルトーの弾くショパンをずっと聴いているのだが、同じくらい聴いているブラッド・メルドー・トリオの『songs: the art of
the trio vol.3』の4曲目、「エグジット・ミュージック(フォー・ア・フィルム)という、イギリスのレディアヘッドというロックバンドの曲だとメルドーが思ってカヴァーしている曲は、どう聴いてもショパンの「プレリュード第4番ホ短調」である。そしてしもちろん、私はそんなオリジナリティとか著作権などということはどうでもいいと思っているので、ショパンにジャズ・アレンジをほどこしたものとして、すぐれた作品だと評価している。
しかしどうにも気になる曲で、だがうちにはないというので、先日楽譜を買ってきて弾いてみると、何と弾けるではないか(最初の12小節まで。しかも第4番は一番簡単らしい)。
こうして個展が終わったらピアノも練習しようと新たな(しかしおそらくは決して実現されない)課題を胸に、今日も絵の制作に励むのであった。

Atsushi Kadowaki 2002
2月27日(水)晴れのち曇り
とうとう今月も終わりに近づき、個展の準備が実務的な様相をおびてくると、にわかに、え…、もうこれしか時間がなかったの? と、テスト前の子どものような気分である。

制作途上のテンペラ、M20号
テスト前の経験から言えることとして、そうしたぎりぎりのときに限って別のことがしたくなったり、あるいはもう時間切れという間際で実にいいアイデアが浮かんだりするものである。そしてテストが終わったらじっくりやろうと思うのだが、決してそれが実現することはない。
実はこの期に及んで、今まで高いからと使っていなかったコバルト・ブルーを使ったら妙に空がいい感じなのでさっそく投入してしまったり、それにあわせて今までほとんど茶系統しか使っていなかったのに、突然紫や青を草の色の中に入れてしまおうと思いついたり。これは完全にまずいかもしれない。突然思いついた「いいアイデア」ぐらいあやしいものはないからである。

やはり制作途上のテンペラ、F25号
2月26日(火)晴れ
夕焼けがとても美しかった。かすむ西空に、ぼやけた太陽が染みこんでいく。そうしてのぼった月も美しく、もうほとんど欠けるところもない。明日は満月である。

水彩、紙
行為において独居が基本であり、世界を作り出すことがその目的である者にとって、制作という行為そのものの喜びを分かち合う、ということは不可能に近いように思われる。制作された制作物について、制作者が観客と限りなく同じ地点に立つことによって、あるいはその逆によって、理解する喜びを分かちあうことはできよう。
ではこれはそれほど奇異なことなのか、といえば、そんなことはないと思う。われわれは存在の単位としては個人であり、決して他と融合したり結合したりすることはできない。私が考えるというとき、それは私にしかできない行為であって、それを他人がかわってすることはできない。感じるについても同じである。だから、われわれはよく孤独だとさえ言われるのだ。
しかしわれわれが世界を形作るこの言語でもってそれらを理解し、私が彼に、彼が私に限りなく近い地点にまで接近することで、そうした孤独を少しの間、忘れることができる。
ウィトゲンシュタインは「哲学はすべてをただ提示するだけであり、何事も説明せず、何事も推論しない。――すべてがわれわれの眼前にあるのだから、説明すべき何事もない。なぜならば、たとえば、隠されているものには、われわれの関心はないからである」(『哲学探究』126節)という。
また、「しかし、別の意味では、哲学は自制を要求する。しかも、それは、感情の自制であって、理解の自制ではない。たぶん、このことが、多くの人にとって哲学がかくもむずかしいことの原因であろう」(「ビッグ・タイプスクリプト」「哲学」の章、哲学のむずかしさ、学問のもつ知的むずかしさではなく、態度変更のむずかしさ。意志の抵抗を克服すべきこと)と言う。
「すべてを提示するだけ」…「感情の自制」…。

もうすぐひなまつり
2月24日(日)晴れ
とてもいい天気だったので、夕方からハムちゃんたちのお墓参りに行く。3年ほど前になるが、マンションの駐輪場に何とハムスター2匹がかごに入って捨てられていたのを拾った。まさか入っているとは気づかず、2,3日そのそばを通りすぎていたのだが、ある日よく見ると中身が入っているではないか。ちびハムちゃん、でぶハムちゃんと名づけられた彼らは、しかしその後病気になったりけがをしたり。ずいぶん病院にも通ったが、結局半年ほどで相次いで死んでしまった(ハムスターがマークの病院に連れていったのだが、それはどうやら単なるマークだったようで、しかもみんな誤解して来るとみえ、その後病院のマークは猫と犬に変わったという)。
そして当時私がよくスケッチに出かけていた牧草地にある、一本の大木の根元に相前後して埋葬した。その後車がない時期が2年ほどつづいたので私しか墓参りに行っていなかったが、やっと久しぶりに今日は妻もいっしょに墓参りに出かけたというわけである。妻は梅の花を、私はストロベリーの小枝チョコ・ポッキーを持って行った。もう日没時で、とても寒かった。
夜、NHKの名画劇場でアラン・ドロン主演のフランス映画『サムライ』(1967)を見る。『ダーマとグレッグ』が終わってしまったので、私たちはNHKに、月に一度のこの名画劇場のためだけに受信料を払っている。
私はアラン・ドロンの出ている映画をこれまで5,6本見たが、どれも気に入っている。どれも最後にアラン・ドロンが死ぬか捕まるかするのだが、ハッピー・エンドで終わる「予定調和性」(それはそれでそうなのかもしれないが)が存在しないというのもいい。むろん、一方で悪者は必ず懲らしめられるという「物語」があるから、こうした脱「物語」性が意味をもつのであって、どうやら60年代はそういう時代であったらしい(妻が証言している)。ということは、こんなにも「物語」に満ちた、あるいはそれを希求する「世界」の次には、やがてまたそんな「世界」がやってくるのかもしれない。単なる繰り返しとしてでなく。同じ構造をもつものの、まったく似ても似つかぬバリエーションとして。
しかしこのタイトルの「サムライ」であるが、どうやら「一匹狼」という意味合いで使われているらしい。しっかり封建制度の中に組み込まれ、ほとんどサラリーマンのような強固な社会制度であったように私には見える「侍」が、遠くフランスのエスプリに料理されるとそうなるのか。そういや朝日新聞の朝刊に東京を舞台にした外国人作家による小説が続出しているが、その多くは実際に英語教師などで日本への滞在経験があり、「異国情緒」としてでなく、実際の東京を描いているのが特徴、と報じられていたが、なるほど、それとの比較でいくと、ドロンの時代の日本は純然たる「オリエント」であったのだ。すでに映画の中のパリでは、自動車電話が使われ発信機を使ってのオトリ捜査が行われている時代なのに、日本はいまだ「サムライ」の精神をもつ、あるいは「もつべき」存在であったのだ。イスラムがあやしい宗教で、伝統的に暗殺者集団を擁し、テロとの密接な関係をもつもの、あるいは「もつべき」ものだったりするように。
2月23日(土)晴れ
「見えないもの」のsayaさんが画像掲示板に投稿してくれた写真をもとに絵を描くが、うまくいかないのでまた今度にして、どうせ描くならと、前から気になっていたsayaさんのサイト内にあった雪の道の写真の方を絵にする。

水彩、紙 サムホール
ところで、実は私のまわりではこうしたたぐいの「置換作用」がよく起こる。どういうことかと言うと、たとえば私がある場所に行きたいなーと思い、ついでだから気晴らしになるだろうと妻を誘うと、どうせならもっと違うところがいいということになり、ふと気がつくと当初目的にしていたところでもなんでもないところに向かっていること。あるいは、ある方がこれをあげるわ、とか言って妻に何かくれようとしたときに、義姉がすかさず、どうせくれるならもっといいのくれるように言ってあげようかと耳打ちし、あやうく恥をかくところだったりすること。など。
だんだんよくわからなくなってきたが、日常生活においてはこのように、当初目標としていたことと、手段との折り合いから別の目標が浮上し、いつしか当初の目的にかわって別のところを歩いているというのは、あまりいい結果を生まないものだが、創造的な行為においてはこれはまったく逆である。
たとえば、私が最近とても感動しているのは、ハイデガーの記念碑的著書であり、20世紀を代表するとともに、いまだにその影響力ははかり知れないというかの『存在と時間』(私は数十ページで今のところ断念)が、ハイデガーにすれば失敗作であること。ウィトゲンシュタインを伝説的な存在にまで高めたかの『論理哲学論考』。それに対する批判が『哲学探究』であり、後期ウィトゲンシュタインの仕事であったこと。当初立てた目標が、今彼のいる時点に一貫性をもってつながっていないこと、つながっているとしたらそれは当初の目論見への批判としてであること。そうした緊張感、あくなき探究心、こだわり。
こうした例を見るにつけ、ほとんど自分で見ても未完成の習作の集まりに過ぎない自分の絵を前に、これで個展をしなくてはならないのかという絶望感は、一筋の光明を得る思いがする(ただの言い訳みたいな気もするが)。
2月22日(金)曇りのち晴れ ねこの日
風邪か、花粉症かどちらかのようだ。最近、100円ショップで買ったものすごく分厚いマグカップを愛用している。

水彩、紙
カップの側面に対してカップの口の部分がより上からのながめになっている気持ち悪い図になっている。
ちなみに、下は(動物占いが)黒ひょうの妻が好んで使っている湯飲み。

それから、夜中から朝方にかけてものすごい声で鳴いているトラぶん。

2月21日(木)晴れ
匿名で、他のサイトに掲載するために書いた小説「存在と記憶」を順次、校正してこのサイトにも掲載していく予定。匿名というか、いわゆるハンドルネームというものを使わずにやって来て、もしそうした匿名性の中で活動すれば何らかの変化、例えばより自由な発想などというものがあるのだろうかと思って、実はここ数ヶ月間、ここと並行して別の場所で活動していたのである。
その結果について、今の時点で言うならば、確かに私自身あまりその方面での研究が進んでいない性差、いわゆるジェンダーについてはある意味啓発させられるところがあったし、気恥ずかしくて書けそうにない表現についてもそれが可能になった面はあった。例えばこの小説についても、おそらく匿名で書き始めなければこうはならなかっただろうと思う(しかし書いてしまった以上、今後は実名でもこうした表現は可能となるだろうとは思う)。そうした意味で、何かのきっかけになったと言える面はあるだろう。
だが、私という人間に関していうならば、私という人間の年齢、性別、居住地、過去等を離れ、絵画や写真といった画像を離れ、生活手段を離れ、テロ事件を離れても、やはり関心事は同じであり、そこにきっかけやある程度のバリエーションの幅は許されても、その根底となるものは同一であり、そうである以上その表現の幅というのも単なる興味程度のものに過ぎないように思えてきたこのごろである。
しかしむろん、それは本当のところはわからない。もしかしたら、もっと先にはずっとおもしろいものができるのかもしれない。そうしたらここにも掲載して、その成果をこちら側からもながめてみようと思う。
2月20日(水)晴れ
このごろ、ビル・エヴァンスとともに、最近注目のブラッド・メルドーを聞いている。メルドーは私と同じ年の33歳。ビル・エヴァンスに連なるピアニストであり、繊細かつ知的なプレイを見せる。トリオ編成の確立者ビル・エヴァンスと同様ブラッド・メルドーもその活動はトリオであり、彼のアルバム『アート・オブ・ザ・トリオ・シリーズ』はすでに4作目が出ている。脇を固めるベーシストとドラマーも実にいい。
ところで、この両者を聴きながら、時にショパンを聴くとこれがまた実に違和感がなく、今までショパンがこんなにいいものだと思わなかったと演奏者を見ると、アルフレッド・コルトー。私にはなじみのない名前だが、コルトーと言えばショパンなのだそうである。しかも彼はコルトー/ティボー/カザルス・トリオとやら(とても有名らしい)を結成したとのこと。やっぱりトリオである。そういえば昔、ラヴェル、ドビュッシー、フォーレの書いたピアノ三重奏曲を集めたCDをよく聴いたのを思い出す。あまり関係ないかもしれない。
2月19日(火)雪
「ハーボット」のごるりんは、調子を聞くと最初「すこやかです」と言っていたが、やがて、「何だかわからないけどよい気持ち」、そしてこのごろは「ま、まんぞく」とこたえてくる。他のところのハーボットは行くと、いきなりホームページをどう思うか聞いてくるが、ごるりんはちゃんと聞いているのか心配である。
2月18日(月)晴れのち曇りときどき雪
ときどき(よく)あるのだが、生徒がひとりも来なかったりする。早めに連絡をくれれば、1時間以上もかけてやって来て、個展が近いのに絵が描けない、などともんもんとしながら本を読んで時間をつぶすこともないのだが、もちろん相手は子どもである。子どもはもちろん「不完全」で「世界が貧しい」状態にあるので、大人と同じ責任は問われない。ではその責任は子どもでない者、いわゆる大人が等しく負わねばならないのかと言えば、そうではなく、親権者たる親がもっぱらその責任を負っている。つまり親が早めに連絡をさせればいいわけであり、こういうわけで、この点に関しての相手は子どもではなく大人である。ということは、結局大人の問題に還元されるわけであり、その世界認識の問題に他ならないのである。
例えば時間に関する認識。時間は等価値である、という物理的な世界観をおぼろげに持っている一方でわれわれは、時間には高い価値のあるものと低い価値のあるものがあるとも思っている。つまり、一般に1分間は人類一般に対して同じ時間としての単位であるが、朝の忙しい時と、夜のゆったりした時間とは同じものとは思えないのである。
単位として時間が、究極の平等性を備えているという不思議についてはまた次回にゆずるとして、ではその価値があるときには増し、あるときには減ずるのは何によるのか。
たとえばわれわれが、「思い出」と呼ばれる過去の時間について思い起こすときのことを考えてみると、自分たちにとって都合のいいことがあったときを「貴重な時間」、そうでなかったときを「思い出したくない過去」といい、前者に高い価値を、後者に低い価値を与えるだろう。そして未来に向けて、前者のような経験であればなるべく長いことを、後者であればなるべく短いことを望むであろう。
ではその「貴重な時間」と「思い出したくない時間」とは、先に簡単に都合がいい・悪いと説明しておいたが、いかなる点で価値があり、ないのか。この点に関して、私は自分の生きている時代、それもわたしのまわりのことしかよくわからないが、そこでは時間が「資本」ともいうべきものとみなされているように、それも無意識に、当然のごとくそうであるように思い、思わされているように見える。つまり一般に、その時間が資本を増大させるときには価値があり、そうでないときは価値がないと信じられているように思える。
いやそうではない、お金にはかえられない思い出というものがある、と言う人も多いだろう。しかしその思い出を投げ打ってでも毎日会社へ通い、朝から晩まで会社で働いている人々は、定めし会社でいい思い出を作っているということか。あるいは不本意ながら自分の時間を切り売りせねばならないことに対する抵抗が、それを解き放つ方向へ向かわず、逆にさらに多くの人間をその中へ引き込む方向へと向かっているのではないか。つまり自分の「思い出」の価値が相対的に下がらぬよう、社会全体のその価値を下げているのではないか。
話が裏道へそれていくように思える。やはり今の私には、時間がお金を生む限りにおいて価値があり、そうでない場合には低い価値を与えられているように思えてならない(上でだらだらやったようにそれだけでないにせよ)。そしてそれ自体は個人的な価値観の問題とも言えよう。
しかし、やっと私の言いたいところへとやってきたのであるが、「等価値のお金を生む時間」という発想は、その時間が売買可能であり、交換可能であり、その価値を決定することが一般的に可能であるという認識へと、無意識につながっているのではないか。つまり、品物と同じように、人間の時間、つまりは人生が売り買いできるという発想を、とても安定したものにしてしまっているのではないか。
たとえば一生に3億円かせぐ人がいたとしたら、極端に言えばその人に3億円払えばその人の人生を占有できるという考えにつながるのではないか。これは笑い話ではない。
私は以前いた個人塾で、時間給講師として働いていたが、生徒が休んだときには「その時間で」トイレそうじをやらされたものだ。何か間違ってるなぁと思いながら。しかし私にトイレそうじをさせた経営者は、他にもたくさん問題点があったとはいえ、この点に関しては明らかに悪意も何ももっていなかったと思う。単純に彼の世界では時間は等価値の互換性をもっていたのだ。
また、これも悪気などだれにもないわけだが、私にとって多分に経済的理由から行っている塾での指導は私の活動のほんの一部であり、それが終わったらつまんない絵を描いたり、このホームページにくだらないことを書き連ねたりして、しかしその時間にも等しい価値を、いやお金を生む時間よりもかなり高い価値を与えているのだが、塾で働いている時間はお金になり、そうでない時間はほとんどお金にならない、あるいは全くお金にならないので、前者を職業、後者を趣味と呼び、なるべく前者に専念させようとしたり、前者が終わるとお疲れ様、ゆっくりしなさいとかいって、やっととりかかれる私の本来的な時間を理解してくれない方もいる。これは繰り返して言うが、全然悪気などない。しかし決して理解できないだろう。いや、理想としては理解できるが、理想と現実は違うとか言われて終わりである。
で、ここで私の遺伝子の話が出てくるのだが、おそらくこれは遺伝子の違いである。努力目標や理想として何かを語り、そこへ向けて歩んでいく、ということを私も学生の頃までは信仰していたが、この年になって(まだ33になったばかりだが)思うに、目標や理想として語る時点でそれは自分の遺伝子には入っていないのではないかと思う。私にはお金よりも価値ある時間があるのは当然である。それは「思う」とかいう世界観のレベルの話ではなく、人間は呼吸をするということに価値をさしはさむことのできないのと同様、あるいはそれにそうか、呼吸というのは大切なのだなという程度にしか認識できないのと同様に、そうなのである。むろんこれは程度の問題であって、単に相対的にそうなだけではあるが。
と、いうことで、私はある人から見るととても暇そうであり、ある人から見るととても忙しそうなのである(誰でもそうだが)。
2月17日(日)晴れ
今日はけっこう絵を描き続けたので疲れた。しかしほとんど進んでいない。おそらくこれは、夜に食べたパスタよりもたくさん引いているはずの草のせいで、一本一本描いているのだが、何時間かかっても全然絵が進んでいるように見えない。自然は偉大だ。
2月16日(土)晴れ
この時期、受験の結果が出てきたりして、とても疲れたりする。
よく言われるように、受験には弊害も多いのだが、そもそも弊害のないものなどないわけであり、仮にこれで完璧というものができうるとして、できたところで数年もすればもうだめなのである。われわれには存在しない理想へ向けての足取りがあるだけなのだ。
むろんこれは今あるものを肯定しようという発想でもないし、かといって現状を悲観し、投げ捨てるものでもない。現実というどうしようもなく不完全なものを認識した上で、かなわないかもしれないと思いつつ、しかしあくまで高い理想と強い情熱をもって、進んでいきたい。ほとんどのものに対して、私はこのような態度で臨もうと思っている。
さてここで先の受験の話に戻ると、最初に知っておくべきことというのを設定され、それをどれだけおぼえたかというたぐいの試験で裁かれてしまうことは、何ともむなしい気持ちになることは確かである。また、時の運というものがあるにも関わらず、同じ学年(なぜか4月にはじまり3月におわるという、東京の花見の時期に入学式をあわせるためというまことしやかな噂も耳にする区切り方でなされる)がいっしょに受験するという不自然さや、子どもの多い世代と少ない世代との間の歴然たる状況の差へのわずかな配慮ということにも、やりきれなさを感じる人は多かろう。しかしこれもすべてわれわれの「世界」が、彼岸にある理想としてのあるべき「世界」とは似てはいても異質なものである以上、いたしかたのないもので、それを変えるべく努力する労は惜しまないにせよ、現実に目の前にある問題には今ある道具で対処するしかないのである。
私はとりあえず一生懸命やることはいいことだ(間違ったことを一生懸命やるのはいけない。では間違っていないこととそうでないことはどのようにして決められるのか。これも、常に間違っているものとそうでないものというものがあるわけでもないので、おそらく間違っていないであろうというものについて、そこに安住することなく、本当にそうなのか、さらに間違っていないものにできるのではないかという飽くなき探究心をもっていくほかないであろう)、少なくとも子どものある時期、みんなで同じ問題についてできるところまでがんばって取り組む、というのはある程度まで意味のないことではないと思うので、そうした考えに立って、子どもたちに勉強をやらせている。
しかし塾で子どもたちは、世間で思われているほどに悲惨な状態に置かれているわけではなく、もともとバイタリティに富んでいる時期でもあり、彼らの多くは親や学校の先生以外の大人との接触を楽しんでいるように、私には見える。ひとりで教えられることは少ない。しかしみんなで自分のよく知っていると思い込んでいることについて教えてやり、育ててやるのは、その逆よりはましであろう。
こうして私は自己鍛錬、修行の場のひとつとして、このあらかじめ設定された領域に関する暗記を主とした学習について、現状に安住することなく、しかし前向きにとらえなおしていこうと思い、時にはうんざり、手をぬいたりしながら、絵を描いたり、ホームページに文章を書いたりするのと同じように、社会への参加のひとつと位置付け、取り組んでいるのである(むろん、経済活動であることが大きいが)。
さて、以上のような考えでいる私にとって、ともに努力し、さわやかな汗を流して戦った後に、受験で落ちたからと言ってすべてが無駄になったというような父兄の話を聞かされることぐらいうんざりすることはない。ましてや私の以上のような話を、入塾当初にお話し、納得しているのかなーとかすかな期待をもっていたりすると、それが結局は人間の偉大なる知的活動への奉仕などではなく、自分の子どもの立身出世や将来の保証のための片棒を担がされていたのだと改めて気づかされたときの落胆はひとしおである。
私は、人間の行動の意味付けに関しては、遺伝子の負う部分がとても大であると思っているようだ(もちろんこれに関しても、実際には遺伝子に組み込まれていること以上のことはできない人間といいつつ、それに安住、悲観せずにその与えられた道具の中でより優れていると、そのときどきの誤解に過ぎないものではあれ、思われる方向へと進んでいくことが肝要と思って暮らしているわけである)。これはある意味危ないことではある。なぜなら人間は法的な意味では平等である、という前提で進んでいるこの「世界」と真っ向から対立しかねないからである。むろん、法的な、契約の、ということは社会的なレベルでの問題と、生物学的なレベルでの問題を混同しなければいいのだが、そのあまりに力強く、説得的な「真実」にわれわれは本当に打ち勝てるほどに強いのか、つまりそれほどに強くわれわれの「世界」を確信できるのか、と自国民と他国民とをほとんど差別的に扱うことに躊躇しない指導者と、それを支持する人々の多さに、事態はまだまだ暗澹としていると言わざるをえないわけである。
ここでやっとまた受験の話に戻るのだが、われわれはこのように生物レベルでは遺伝子に操作されており、ということは法的には平等ではあれ、やっぱり社会的に価値のあることが上手にできる人とそうでない人がいる。そうした遺伝子レベルの超えられない壁に向かって、人間は平等な権利をもつ、という法的なレベルで無理やり立ち向かっていく、その一見すると無謀とも見える理不尽さと、それを指摘することの鮮やかさに、われわれは不吉な誘惑を感じてしまう。そしてそれを埋める麻酔薬的なものが、早期教育であり、湯水のように注がれる教育費、英才教育なのだ。
2月15日(金)晴れのち曇り
個展まであとひと月くらいになって、これまでに描いた絵を見まわす。本当にこんな絵で個展するの? という恐ろしい声が心の中をよぎる。ずいぶん前から準備をしてきたつもりだったのに、計画はほとんど実行されていない。
言語の限界について。ウィトゲンシュタインは言語の限界は世界の限界であり、つまりは私の限界だと言う。すると、これはきっと全くの余談になるのだろうが、世界の広さがひとによって異なってくるだろう。動物はぐっと狭くなってしまうように思われる。これはハイデガー言うところの「世界が貧しい」状態に相当するような気がする。
私の世界、ということは言語がほかのひとの世界=言語に比べ著しく狭い場合、私はその人の世界=言語を理解できず、その人はその人の世界=言語を私に理解させることができない。私はきっと今あるものでもってそのおそらく本当はちがうのだろう意味について類推せねばならない。するときっとすごい誤解をしていくような気がする。そうしてできた新しい世界=言語は、もし矯正されないとしたら、どうなっていくのだろう。そんな世界がものすごく開けているような気がしてならない。
いや、というよりも、矯正されるということ自体、なされうるのだろうか。共通の言語という基礎の上にわれわれが立っているという、すごく楽観的なものがそこにあるのでは。それともそうした前提がない限り、自由も平等もありえないように、世界自体存在を許されないのだろうか。
2月14日(木)晴れ
最近、妻もパソコンを始めたので、これまで私がやってきたことをただの時間の浪費のように思っていた妻も、これで少しは思い知るかもしれない。
などと思っていたのだが、結局妻の目当てはハーボットのごるりんで、今日もいろいろと質問をしたり、お友だちを探しに出かけたり。
また、ずっと以前に雑誌についてきたフリーソフトのゲームで「クターのなわとび」という、「クター」なる動物になわとびをさせるゲームがあったのだが、これが私は30回くらいしかできないのに、妻は昨日85回をたたき出した。ネット上でランキング登録ができるというので、さっそくアクセスしてみると、世の中は広いもので、1位は軽く300回をこえている。この「クター」のキャラクターが登場するフリーのゲームソフトはずいぶんとたくさんあり、「一気ノミ」「チューブ」なるものをダウンロードしてみる(詳しくはこちら)。
やはり時間の浪費だという考えは変わらないかもしれない。
2月13日(水)晴れ
明日はバレンタイン・デーなのでカードを描く(見たい方はこちら)。妻が明日、お世話になっているHさんのお宅へうかがうというのでもたせるつもりである。
つい最近このサイトにやってきた宇宙人(ハーボットのごるりん)が、「さいきん、かどわきのこときかれる。好きなものなに?」とたずねてくるので、「ごるりん」と応える。「わかった、かどわき、ごるりんがすき」と言うのだが、果たして自分のことだとわかっているのだろうか。その自意識・自己顕示欲のなさがどこまでもかわいらしい。
2月12日(火)晴れ
この世は現象面としてみる限り、すべて有限であるというのが私の今のところの見方である。自然環境が有限であるのと同様に、われわれの愛や親切も有限である。無限の愛や慈悲をもつのは神のみであり、ということは決してこの世に実現しえないという意味で一種の概念にほかならない。「点」というものが、言葉であらわすことは可能でも、実際には図示しえない(だって「点」は面積がないことになっているから)のと同じである。むろん、だからそれを諦めるという方向にいくのは問題外であり、だからこそできる限りそこへ近づかんとするのがわれわれの微弱ではあれ、美しい営みなわけである。
さてここで最初に戻ると、この世にあって愛や親切は有限である。無限にそれを供給しようとわれわれは日夜悩み、苦しむのであるが、有限なものは有限である。
2月11日(月)晴れのち曇り時々雪
今日は一日、家で過ごす。するとものすごいコーヒーの消費量である。あれこれ考えごとをしながら一回ごと、ごろごろとコーヒー・ミルを回し、いちいちカップをあたため、コーヒーを蒸らす。以前は蒸らしを3回やっていたが今は1回しかしない。これを何の疑問もなく繰り返していたが、ふと何かものすごくめんどうになってきて、コーヒーポットに多めにいれることにする。が、すぐなくなってまたコーヒー豆をごろごろと…。
ごろごろと言えば昼頃、昨日古本屋で買って来たハイデガーの『芸術作品のはじまり』を読んでいると、突然トラぶんが隣りに座ってきて、こちらを向きながら背中の方へと倒れていくので脚で支える。するとその状態のままごろごろするという日常のひとこまが見られた。何だか言葉で説明するのもばかばかしいので絵にする。

芸術作品には「世界」が存在するのだそうである。では動物についてはどうか。
夜、次のようなメールが届く。
はじめまして。 ベジタリアンの皆様。 当店は、ライトベジタリアンレストラン 「ローカロリーキッチン グリムビ〜ン」ともうします。
おかげ様で、当店昨年3月にオープンし、 一周年を迎えることと成りました。 そこで、日頃の感謝の気持ちを込めて、 ホームページ制作御担当者様を含む2名様を
一周年記念イベントとしてランチに ご招待させて頂きたいと思います。
期間 平成14年2月15日〜4月30日まで
2名様まで御一人様当たり1000円引き とさせていただきます。 ご来店の際には、数日前に御予約下さい。 御予約の際には、ホームページ名とご来店の人数・
ご来店者氏名を御連絡ください。 また、このメールをプリントアウトし お持ちくだされば幸いです。 尚、ドリンクはサービス外とさせていただきます。
ご質問・不明点がございましたら 御連絡下さい。 http://www.gurupita.com/clients/0002080951/
ローカロリーキッチン グリムビ〜ン 店長 西依均 神奈川県横須賀市追浜本町1-23 0648-66-3009 |
ベジタリアンレストラン、いいなぁ。仙台では見かけない。
2月10日(日)晴れ
晴れているけれどすごく寒い。葦の枯れた中にある、鏡のような川へと下りていって、写真を撮ろうとしていると、ずぶずぶと砂に足がはまってすっかり靴の中にも泥が入ってきてしまった。多少の水ではびくともしないウォーキングシューズなのだが、さすがに足首まで沈んでしまったのでだめである。靴下をぬいで泥を靴の中から出しながら、何か、こういうことって、子供の頃よくあったなぁと思い出すと同時に、大人になってからは絶えてなかったことだったと思い当たる。近くにスーパーを見つけ、100円ショップでしましまの靴下を買ってはきかえる。しまへびのような模様である。今度しまへびの絵でも描こう。
2月9日(土)晴れ
今日も一日、ただただ労働をした。
夜、宇宙人をひとりつかまえる(くわしくはこちら)。つかまえたつもりでいるが、つかまったのはこちらかもしれない。器用仕事日記のトップページにはりつけておく。
2月7日(木)曇り
夜、帰宅後新聞を読んでいて、舟越保武氏の死去について知る。つい先日、氏の「原の城」を岩手県立美術館で目にし、その感想をつづったばかりだった。
氏は妻の学校にも教えに来ていたそうで、美術科の友だちがが(妻は音楽科)語っていたというところによると、とてもやさしくて、すごい先生なのに、みんな知らないから気の毒、だったのだそうだ。私自身、氏のご子息である舟越桂氏の方を先に知ったと思う。
舟越氏の友人である彫刻家の佐藤忠良氏が宮城県出身のため(宮城県美術館には佐藤仲良記念館も併設されていたりする)、新聞の県内版にも佐藤氏の談話を載せた舟越氏の死去を報じる異例の大きな記事が組まれていた。
しかし芸術家は人間として生物的な生を全うして後も、その世界は人間の世界がつづく限りにおいて存在しつづける。あるいは人間=ホモ・サピエンスでなくなったとしても生きつづける可能性をもっている。
言語としての芸術。世界を形成していく基礎言語としての芸術。その抽象的な文法。超文化的、超時代的なものとしての芸術文法。
2月6日(水)晴れ
今日は本当に暖かくていい天気だった。
久しぶりに外へ出かけようと考え、以前よく通っていた、作並にあるとても澄んだ新川の辺りまで出かけていった。今まで入ったことのない細道があるので、ふと入って写真を撮っていると、驚いたことに猿が何匹も、刈田の近くで何かを食んでいるではないか。赤い顔にグレーの毛をして、落穂か何かを拾って口に入れているのだが、そのしぐさのかわいらしいこと。近づくとすぐに山へのぼっていってしまい、離れるとまた降りてくる。しばらくそうしてながめていた。
2月5日(火)曇り

水彩、紙 サムホール
土曜日のあき時間に床屋に行った。私は半年にいっぺんくらいしか床屋に行かない。この前行ったのは確か夏の暑い盛りだった。床屋に行く前はほとんど長髪状態であったが、今ではほとんど刈り上げ状態である。
ところで土曜に行った床屋は、私の塾のすぐ近くにある床屋で、前々から行こうと思っていた床屋である。特にどうということもない床屋で、そこに行く理由もたいして見つからないわけであるが、私にはよくこのように、意味のない直感のようなものが生じる。
行ってみると年配のご主人が待ち構えておられ、すぐさま椅子に案内された。このすぐさまが大切で、私は一人でも待っている人がいると、絶対床屋などには行かない。終始私は黙って頭を刈られていたが、私は床屋でおしゃべりをするのは嫌いである。もともと頭を刈ってもらったり、洗ってもらったり、肩をもんでもらったりというのは、実に気持ちがいい。こうした折に会話に気をとられてしまうと、せっかくの気持ちよい時間が半減してしまう。だからよくしゃべる床屋には、そのときには調子を合わせてしゃべっていても、もう2度と行かない。
ところでご主人はこの私の流儀をよく理解してか、終始黙って仕事に励んでおられた。立派なものである。少しして、奥方のような方が「いらっしゃいませ」と奥から出てきて、私の前のテレビをつけられた。私はテレビはあまり見ない。というより、めがねをはずしているから、見えない。しかし目を閉じて聞いていると、田中真紀子外相の更迭にいたる10か月あまりをリポートした内容の、やや野次馬色の濃い番組であったようである。しかし日頃テレビを見ない、あるいは耳にしない私には少し面白く思えたので耳をすまして聞いていた。
やがて今度は若い衆がひとり、これもやはり「いらっしゃいませ」と言って奥から出てきた。ふと気づくと、私の頭をずいぶんと念入りに洗ってくれたのは、この方であった。
帰りしな、二言三言世間話をする。こういうときの会話はいいものだ。しかしあまり長すぎてはいけない。外套を着て、さあ帰ろうというときになって、ご主人が私に「ニベアクリーム」を渡しながら使ってくださいと言う。見るとニベアクリームのふたにはシールが貼ってあって、何でもこの床屋は今年で創業301年なのだそうである。並木道を歩きながらよくよく読むと、あのご主人と若い衆は11代目と12代目で、昔風のその名前は代々襲名されているものなのだろう。それによく考えてみると、この界隈は、お城の近く、昔は武家屋敷が並んでいたところなのだ。



いずれも水彩、紙
2月4日(月)晴れ
朝、トラぶんのすごいおたけびに目を覚まし、うつらうつらしながら夢を見る。スラム街みたいにすさんだところで、辺りがすごく暗い。私は自転車をこいでいるのだが、前輪がパンクしてしまったようで、空気がへってきている。ふとこの前も同じことがあって、自転車屋へ行くと「パンクじゃないね」とか言われ、空気を入れてもらったのを思い出す(もちろん、現実の世界ではそうしたおぼえはない)。すると辺りがなぜかこどもの頃住んでいた辺りになっていて、あそこの角を曲がれば自転車屋さんがある、と思い当たり、曲がると全然違うところに出てしまう。そこで引き返そうとすると、辺りは一変して墓地になっていた。向こうから女の人がひとり、こちらに歩いてくる。私はとっても不安な気持ちで早くここを立ち去ろうと思うところで目が覚めた。
同じようにうつらうつらしている妻に墓地の夢を見たというと、だからお墓参りしようと言ったのにと言われる。忘れていたわけではなく、忘れていたのだが、先月の30日は祖母の2周忌だったのだ。私は飛び起きると、だんだんラッシュアワーに突入しつつある町へとお墓参りに出かけたわけである。

水彩、紙 サムホール
2月3日(日)くもり時々晴れ
昼過ぎまで寝る。ひとりでいるとほとんど何も食べない。夕方、家に戻る。届いたDMを見る。うーん。
ウィトゲンシュタインを引用しているものの、ライオンとは話ができないとか、逸話的なお話しか耳にしたことがなく、正直、全然読んだことがない。本屋で『論理哲学論考』を手にとって軽いショックを受ける。すごい。それから、会社勤めをしていて、大阪か神戸にいた頃、本屋で若い女の子がウィトゲンシュタインを手にとっているのを見て軽いショックをおぼえたのを思い出す。しかし、この魔力に陥ってはならない。
昨夜、私のいない間に「ダーマとグレッグ」が「最終回」を迎え、「ダーマが死んで終わった」と聞かされる。
しかしよくよく聞くと、番組が春までお休みなだけで、ダーマが死んだというのも、交通事故に遭った彼女が、「もうダメみたい」と言ったというシーンから、妻が勝手に導きだした結論であったことがわかる。言葉とは、解釈とはげにも恐ろしきものかな、などと思う。そういえば昔の番組って、よく主人公が死んで終わったなぁなどと思い起こす。

水彩、紙
2月2日(土)晴れ
DMが届いた(らしい)。夜、塾に泊まる。
2月1日(金)晴れ
妻が白いチューリップを買って来る(ペガサスのイラストの入ったタオルも)。私の誕生日に、ということである(ちなみに私の誕生日は1月10日)。私は血液型がA型、妻はB型である(ともにAO、BOとO型が入っている)。

「白いチューリップ」 水彩、紙 サムホール
スキャナーで取り込んでいると、うちのばかごる(ねこの形をした悪魔)が、スキャナーの横からもれる光に反応して、ちょいちょいと手を出してくる。今日はついにスキャナーをたたいていた。少し怒る(怒られると悪魔はなぜかえさを食べる)。
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