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器用仕事日記

〜2002年8月〜

Atsushi Kadowaki 2002

 

8月31日(土)くもり

 40号を2枚並べた松島の絵を描いているのだが、絵具がみるみるなくなってしまい、昨日も行ったのに今日も画材屋に行く。いつもちまちましたものを描いているので、このあたりの勝手がまだよくわかっていない。
 描いていく中で、現場でのスケッチや写真をすっかり離れ、つまり生の対象そのものを離れ、絵そのものと対峙する瞬間が心地よく、まさに描いている、という気になる。私はとてもリアリティ、というものを大切に思うのだが、それはまず対象と似ているかどうかということはもちろん、それを離れて、それ以上のそれらしさへと至る、その感じにゾクゾクくる。リアリティの持っている触感のひとつに、艶かしさ(なまめかしさ)のようなものがあると思うが、それである。私の今までの画面には、どこか乾いて風化した雰囲気が漂っていたのだが、それはおそらく対象を忠実に再現しようとする努力の干からびたぬけがらみたいなものだろう。今の私の画面は逆に少し生々しい。もう少し抑制されたところまで、品格のある艶かしさまでいけるといいのだが。

 

8月30日(金)晴れのちくもり

 個展初日(個展の内容についてはこちら)。

 昨日は夜から搬入だったのだが、この個展は妻がすべて仕切ってくれているので、オーナーとはじめて会う。写真を撮っている方で、最近はインドやネパールの子どもたちの写真を新聞等に発表されている。店ははじめて28年だという。私ははじめてこの店に入ったのが高校生の頃であるから、それでもまだ15年ほど前にしかならない。アンティークの家具を配した、実に落着ける空間である。
 いろいろなことに話題は及んだが、以前ヨーロッパの風景ばかりを撮っていたが、もう人物しか面白いとは思わない、というのが印象に残った。私もそう思う。しかしやっていることは、限りなく人物を排していくこと、限りなく物語性という人間固有の現象を排していくことだ。むろん、それにはこんな言い訳も成り立つだろう。つまり、人間をどこまで削ることができるのか、その限界に挑むことは、結局は限界点から逆照射された人間を浮かび上がらせることになる、と(結局はそれを排することなどできない、ということを示すことになるのだから)。

 喫茶店なので、私はいなくてもよい、ということになっており、人気の店でもあるのであまり長居するのも何なので、基本的には会場には常駐しないのだが、初日だからとお昼過ぎに行ってみると、Kさんが花をもって現れ、既に帰られたのを知る。長崎で勉学に励む2人のお子さんはお元気だろうか(仙台に残られている娘さんも)。そもそもこんなに石ばかりを描くきっかけを作ってくれたのは他でもない、Kさんである。数年前にもいくつか描いたのだが、反応が思わしくなく、自分では何か琴線にふれるモチーフではある、と思いながらも俗物根性から描くのを止めていた。それが彼女によって見出され、私もそこに強い意味を再発見することになった。まったくひとの反応ばかり気にする私である。
 Hさんに会う。彼女は妻とともにパイプオルガンを弾いているのだが、何の話からか、音楽の演奏や絵画の制作は言語の習得と同じく、その理解に関してはある程度の共通の能力が人間には備わっているはずだ、という主張をしたところ、後で激しいつっこみを受ける。ひとりで描(書)いていると味わえない快感である。そしてそれが個展会場にいることの意味なのだと思う。

 

8月29日(木)晴れ

 地元情報誌『せんだいタウン情報』に小さく載った個展案内の記事を読む。それはほとんどが私が書いて送った資料からの引用でできているのだが、こうして自分の文章と出会ってみると、それは何かとてもむなしい。寸断された文章なので貧弱、という意味ではなく、私はあまりに多く語り過ぎていると思う。まるでひとの個展の案内でもしているかのようだ。本編よりも刺激的な予告編、というのはよくある話だし、それは宣伝の勝利ということなのだろうが、もちろんこれは宣伝ではない。私はきちんとしたものも描けないのに、まるでそれを描いているかのような文章だ。それはとてもむなしいしばかげている。私は多くを語り過ぎる。それは私を軽くこえてしまっている。こんな風で私はいったい何をしようというのか。

テンペラ、パネル サムホール

 

8月28日(水)晴れ

 今日はとてもいい天気だった。この夏は結局塾とアトリエに通いづめだったので、海や山へ行くこともほとんどなかった。この四角い空間の中で「捻出」される絵。まぁ、そういう時もあるであろう。
 今日から40号を左右につなげた横長の画面に松島の海の絵を描き始める。あっという間に絵具がなくなり、足りなくなってしまう。しかし大きいことは、それだけで興味深い。それは実物に近づくからだろうか。
 以前、20メートルくらいある風景画を見たことがあるが、きっと目で見た実物大なのだろう。しかしそれでもそれはレヴィ=ストロースが言うところの「縮減模型」である。なぜならそれは人間によって描かれ、描くことができるものへと変換されたものであるから。実物より大きくてもそれは「縮減」模型なのである。なにも時間やら空間を削除したから、などと言わなくとも。

 明日は個展の搬入である。積み上げた額縁の箱の上でゴル(猫)が番をしている。

 

8月27日(火)晴れのちくもり

 少し描いた絵の写真ができてきたのでアップ(こちら)。

 言葉であらわされるものはすべて言葉からできている、とはいえ、それはものとの対応関係にある。では「言葉」という言葉は、何と対応関係にあるのか。
 というのも、「セルフポートレイト」というテーマ(絶対自分では考えそうもないが)について
考えていたのだが、ものを認識するのが私である以上、そこには必ず私が含まれているのであって、認識されるものは必然的にセルフポートレイトになってしまうように思うのだが(だからといってすべての言葉が言葉からできているから「言葉」について考えるのは無意味とは思わないが)、きっとそうした意味で、「私」に対応する私とは何か、というのがその眼目なのだろう。つまり私の認識と私自身とが出会い、その対応関係が消失する地点こそが、「私」なのだ(私=「私」)。そしてこれこそがウィトゲンシュタインの次の言葉の言わんとするところだろう。

「主体は、世界のうちに属するのではない。それは、世界の境界なのである」(『論理哲学論考』5.632)

 ちがうだろうか。

 

8月26日(月)晴れのちくもり

 夏期講習がめでたく終わったので、久しぶりにアトリエへ行き、絵を描く。とっても調子がでない。これはまずい。きっとスケッチか何かに行って少し描いて来ないといけない。

 トラぶん(猫)は見るといつもスリッパをはいている。もちろん、はいて歩いている、というわけではなく、片方のスリッパに自分の両足をつっこんで、その上でスフィンクスのようなかっこうをしてゆっくりしているのである。いつからそういうことをし始めたのかおぼえていないが、それが気に入っているようだ。ゴル(猫)は今日買って来た額縁の箱の上で寝ている。5枚買って来たので5段重ねの上で寝ている。

 

8月25日(日)晴れ

 私が私であって、それ以外のものではない、ということ。私が感じる幸福感や罪悪感は、どこまでいっても私以外の人間が感じるもととは異なっていて、しかもそれがどうしてそうであるのかを説明することができないこと。つまりそれは偶然性によって支配されている、というどうしようもないほど明らかな事実。だからこそこんなにも必然性を求めたがるのだろうか。
 時として、そうした偶然性をあたかも必然であるかのように語る人を見かける。それともそれは語られることによって必然へと歩み出すのだろうか。つまり私的言語も語られることによって、いつかはまれに言語ゲームへと移行することができるのだろうか。
 しかしどうだろう、これを絵画制作に置きなおしたら。この、どうにも不可能で不毛に思える歩みこそが、私の言う「物語の排除」そのものではないのか。「物語」とは「事実」であり、ありうることではなくあったこと、すなわち偶然性によって支配された領域である。そしてそれをありうるすべてのことの中からいかようにも導き出せるように思いなすこと、必然によって支配されていると思い込むことが、私の言いの正体ではないのか。
 クロード・レフィ=ストロースが『野生の思考』の中で展開している美術に関する文章が、私にはさっぱり理解できなかった。それは美術を制作したことのない人の知的なゲームか何かだと思った(特に芸術を縮減模型と解するあたりが)。しかしやっとその一端を理解できるように思う。すなわち、
 「画家は自分の作品を、偶然性とはなんら関係なくて、それ自体のうちに、かつそれ自体のために価値のあるものにしようとする。「イーゼル画」という形式は本来そういうものなのである。制作技術と用途という二つの面で偶然性から解放されたプロの絵画は、こういうわけで偶然性を機会に集中することができる。そして、もしわれわれの解釈が正しいとすれば、そうせざるを得ないのである。(中略)芸術哲学にとって本質的な問題は、作家が材料や製作手段に「話し相手」の資格を認めるかどうかを知ることである。(中略)しかし、いかなる美術も、機会であれ、外的な偶然性によって完全にとらえられてしまう場合にはもはや美術の名には価いしないであろう」(前掲書p35-37)

 

8月24日(土)くもりのち雨

 今日で夏期講習も終わり。高校3年の時の担任で、数学をみていただいた恩師が絵を展示しているというので見に行く。山上りがお好きな方で、山の絵なのだが、描法うんぬんより何よりも、山に登る喜びがにじみだしていることに驚かされる。私はそうした情緒的な感想によって絵画を評価するのは好きではないし、自分の絵においては画面に感情を浮かび上がらせたいとは思わないのだが、その絵には素直に共感できるものがあった。それはとても大切なものだろう。私の閉じた世界にはない、とても重要な何ものかであろう。もちろん、私の世界にそれがないからといって、私はそれを手に入れたい、というのではない。ただ、すばらしいと言いたい。そしてそれは私が最近学んだことだ。

 たとえばうちの猫などは、とてもおかしなことをするのだが、おそらく私が見ていなくてもそれをやるのだと思う。もちろん、受けをねらってやることもある。観客があるのはうれしいものだ。しかし自分のからだよりもはるかに小さな箱に入ろうとしたり、何やら見慣れぬものをちょいちょいしたり、毛布の上で空飛ぶポーズをしていたりするのは、きっとひとに見せるためではない。それはいわば「自然」なことだ。当然のことながら、彼らは自然なのだから。そして私はそれをそれとして受け取るけれども、だからといって人間であることをやめようとは思わない。それはまた別の話だ。

 

8月23日(金)晴れ

 私の描いた石は、単なる「イコン」のようなものに過ぎないではないか、と思う。つまりそれのかわりになるもの、という意味での。それは必然性を求めた結果、私が得たものなのだろう。そしてもしそうだとすれば、それはもはや芸術ではない。
 しかしどうだろう。あるものを別の手段によって示す、ということは、それそのもの以上のリアリティを示す、ということではないのか(むろんそのものの形式のみを示す、というスマートな手もあるだろうが)。そのとき、そのあふれ出た分のリアリティの意味こそが、それそのものを抜き去った後に残る形式のようなものではないか。

 

8月22日(木)晴れ

 レヴィ=ストロースに習って、出来事を構造へと統合することが、美的感動を生み出すのだとすると、偶然を排してしまうことは、それを必然へと統合する作業をも消去してしまうのではないか。つまり問題を解決する手段として、問題そのものを消し去ってしまうような。そしてそこには問題もないかわりに、解決そのものも消えてしまうだろう。

 

8月21日(水)晴れ

 台風が去って、もう秋の風である。乾いていて、すんでいて、美しい。

 

8月19日(月)くもり雨

 今日から一週間、また夏期講習である。塾に行くまではこの2週間の自由な絵画制作を思うに、正直うんざりしていたのだが、実際子どもに会うともうほとんど忘れてしまう。
 私はとても教育に向いているとは思えない(どうぶつ占いでもしっかり不適職に「塾講師」とある)。子どもをほとんどしからないし、道徳的な話にはうさんくささを感じてしまうし、第一子どもとほとんどいっしょになって怒ったり、はやしたてたり、ぶつくさ言ったりする。子どもたちには私がいわゆる「先生」であるとはうつらないだろう。そういう人はどこか別のところにいて、そういう名前の違うもの、という風に理解されているのを感じたりする。そしてそれはここにとどまらない。
 私とは、すべてにおいて、そういう名前の違うものであるように思う。そして私のこの性格が、明らかにそれを助長している。

 

8月18日(日)くもりときどき雨

 この前作った曲(こちら)をスピーカーから流していると、騒いでいたごる(猫)が静かになる。スピーカーの近くへと移動したり、えさを食べ始めたり。猫のための曲集とか。いいかもしれない。でも猫のための絵はどうだろう。そういう意味で、2次元の世界にそれ以上のものを期待するのは、とても特殊なことなのだと思う。

 

8月17日(土)くもりときどき雨

 今日は遅く行って早く切り上げる。この2週間、アトリエをもってずいぶん通ったが、来週は夏期講習となる。ほとんどなにひとつ終わっていないことに改めて気づかされる。きっと問題は場所や時間ではないのだろう。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月16日(金)くもり

 途中、用事があって出かけたりして、それを差し引いても7,8時間くらいは絵を描いている計算になるのに、いっこうに何も進まない。今日やったことを思い浮かべても、それで7,8時間分にもなるのかと大いに疑問である。効率ということを考えると、まったくナンセンスである。そしてそんなことを思うにつけ、どうしてそんなことを考えるのかと思う。それこそがナンセンスなのだろう。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月15日(木)くもりときどき雨

 今日は一日、絵を描くのをお休み。

 

8月14日(水)くもりのち雨

 アトリエにシーケンサーを持って行ったので、時間がないと言いながら曲も作ってみる(こちら)。

 誰からも好かれることはいともたやすい。それは意思しなければよい。意思しないものには罪もない。すべてを投げ打ってみせればよい。しかし私はそれをすごいとは思うが高貴なことだとは思わない。やろうと思えばできることだ。それはどこか私の描いている絵に似ている。努力によって描かれた絵。努力すれば描ける絵。確かに努力は認めよう。しかしそれは素晴らしいとはとても言えない。無意味であるとは言えないだろう。しかし必要であるようには思えない。なくてもよい。そんなものをいくら積み重ねようとも、ひとつあればもう十分なのだ。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月13日(火)くもり時々晴れ、雨も

 すべてに満足していたとしたら、私は絵を描こうなどと思うだろうか。何のために絵を描くのか、という問いは、もうすでに或るこたえを想定しているか、あるいはまったくこたえられないとわかってするかのいずれかであろう。むしろどうしてそういう問いを立てたくなるのかに興味がある。なぜそんなことをわざわざ問おうと思うのか。私は何かをするのに理由などいらないと思う。というより、そんなことにこたえられるものかと思う。それなのになぜそんな問いを立てたく思うのか。それにはこたえることができると思う。それともひとはそのことを言っているのか。

 

8月12日(月)雨

 ひさしぶりの雨。とても涼しい。
 アトリエに入ってからまる1週間が過ぎた。しかしこんなに朝から晩までやっているのに、とくに目立って絵が進んでいるように思えない。思うに私にとっての時間はお金と同様、あればあるだけそれに応じて使ってしまうものなのだ。しかしそれでも時間はほしい。
 例えば、映画を見ていて、ひとりの俳優が一生の間に出られる映画の数とはどれくらいのものなのかと考えたりする(別にたくさん出ればいいというものではないが)。

 

8月11日(日)曇り

 意思する以上、倫理的なものを避けることはできない。絵画を制作するという行為にも当然それは伴う。しかしそれは絵画そのものにではない。作り上げられたものは意思しない
 ここで私が言いたいのは、絵画の内容についての倫理観のことではない。絵画を描く、という単純にその行為も、倫理的なものを含んでいる。つまり、なぜ絵画を制作するかわりに他のことをしないのか。私はなぜ絵画を制作することが自分に許されていると思うのかということである。もちろん「表現の自由」が保障されているから、などということを知りたいのではない。
 私は思わず、ひとに向けてさえ、絵画を制作するよりも大切なことがあるのではないか、という問いを発してしまうことがある。むろん、それをひとに向かって問うのはばかげている。それは問いではない。なぜ人を殺してはいけないのか、というたぐいの問いと同じものだ。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月10日(土)晴れ

 比喩はときに、絶大な威力を発揮するが、それはもちろん比喩を使う人間という現象内でのことである。動物は残酷だ、とか、純粋だ、とかいった話は、どうしてわれわれ人間はそういうことを言いたくなるのか、というものとしては正しいが、それがわれわれ人間にとって何らかの意味や教訓を与えうる、という発想には身震いするほどの嫌悪感をおぼえる。どこまで傲慢の限りを尽くせばよいのだろう、という気分になる。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

8月9日(金)晴れ

 誰かが得をすると誰かが損をする、というような世界観がある。私も多くそこにいる。よくそのばかばかしさ加減にうんざりして、得になるかどうかなどどうでもいい、その外に立ちたいのだ、とすべてを投げ出してそこから逃走を始める。しかし「その外」などない。それはきっと得か損かなのだ。
 また、誰かの得を願うことが私の得でもある、というような世界観もある。私はこれにはとうていついていけない。どうしても自分をそこまでだますことはできない。すっかり自分をひとつの価値観の中に入れることなど断じてできない。絶対にはみ出す自分がいないと落着かない。それは悲しいことだろう。しかし不健全なことではない
。常に、何に対しても、私はずれていなければならない。はみ出していなければならないのだ。そしてどんなにゆっくりでも、逃走していなければならない(もちろん逃走するためには、「そこから」の「そこ」が必要である。それは不健全なことだろうか)。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月8日(木)晴れ

 よく言われることだが、説明の仕方でものは変わるという。では「AはAではない」ということがあるのか。それとも、「AはAだが、Aには見えないこともある」ということか。ばかばかしい。そもそもAをBと説明したとたん、それはAではないのだ。
 同じように、「理想」と「現実」は違う、と言われる。まるでAであるべきものがこの現実世界ではしかたなくAでない、という状態が存在し、われわれはそれを如何ともしがたく、まったく遺憾である、というように。ばかばかしい。AであるべきものはAであり、AでないものはAでない。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月7日(水)晴れ

 美は、所有することができない。そして、同様に、われわれは何を所有することもできない。この、現在という絶え間なく過ぎゆく点において、それらに接していることができるだけである。ほんの小さな点において。しかしそれは美しいことではないだろうか。私にはとても美しいことに思える。
 何ひとつ、私には属してなどいない。何もかもが独立に、私と同じように、今、こうして、在る。同じように、そこに、そのように、在る。

 もし私が、ある石の絵を描くとき、精密に、まるでそのもののように描いたならば、それだけその石の存在の確かさは、より確かなものになるだろうか。もし私が、「まったくの」想像で石を描いたならば(それは私たちが言うところの「石」の形をしてすらいないかもしれない)、その石の存在の確かさは、不確かなものになるのだろうか。では、「モデル」を使わずにまるで緻密な「石そのもの」を描いたなら、それを見る人は逆にその石の存在を信じるのだろうか。それとも、そんなことはどうでもいいことなのだろうか。そうかもしれない。つまり、確からしさは、二次的なものに過ぎない。それが「本当に」在るかどうかなど、どうでもいいのかもしれない。しかしその確からしさのために、私は何と気の遠くなるような時間と労力を費やしていることだろう。そしてそれは、ばかげたことなのだろうか。

 

8月6日(火)晴れ

 アトリエ2日目。すでに制作の手順がついているので、流れるままに描いていけばよい、というのが信じられないほどにうれしい。絵をいちいちひっぱり出したりずらしたりする必要もない(猫もいない)。

 何かに共感したとしたら、それはその対象を見ている私自身に共感しているのだろう。私の中にそれを見出し、それに共感しているのだろう。つまり私は私を見ているだけなのに、それをわかったなどと言う。それを共感や理解と言っていいのか。

 結局のところ、私は絵を描いているのだ。どんなことをしても、それを否定することはできない。わたしが言語でものを考えるのと同様に、絵画においても「私的言語」は成立しない。私の絵も、描かれた以上はすべて理解可能である。言葉がすでに音声や文字といった置き換えであるように、絵画も何かを置き換えている。それはそのはじまりからしてすでに何かを語っているのだ。語らないためには沈黙するしかない(しかし語らない何かを語るためには沈黙以外にも方法はあろう)。
 驚き、美への。この私の目にうつる、この私の感じる美しさとは、いったいどこに存在するのか。それをひとつひとつ吟味していくことで、その場所をつきとめることができるわけもない。だから私はその美しさのありかをなるたけそのままそっくり画面の上に再現しようと企てるのだ。そうして語りなおすことでその美について、よりよく知ることができるような気になる。
 私の美への意識は、社会のあるルールによって支えられている。それは私にとって、まさにユニークなものである。しかし決してそれはひとには理解されないし、私にだって同じである。ルールに支えられた言語によって初めてわれわれは通じ合うことができる。それを私は残念に思うべきなのだろうか。わかりやすさへ押し込まれることは嫌だけれど、ある人が感じ取るものもまたユニークなものであり、そしてそれを私は知ることはない。ルールを通じて、ルールが要請する範囲内でのみ分かり合うことができるだけだ。そしてそれは、みじめなことなのだろうか。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月5日(月)くもりのち晴れ

 今日から「アトリエ」で絵を描く。とりあえず、ずっと描いていなかったので、今月末からの個展に出す予定の石の絵(もうすでに多いくらいなのだが)を描く。その後描きかけの大きなものにも。それから、手早く奥松島の写真をもとにした、もう暮れかかった海の絵(8号)を描いた。とても充実した一日であった。

 美は所有することはできない。使用することができるだけである。制作し、鑑賞し、それに現在という時間の中で、触れていることができるだけである。人間を所有することができないように、それは必ずそこからはみ出してしまう。

「石」 テンペラ、パネル サムホール

 

8月4日(日)くもり時々雨

 アトリエに荷物を運び込む。すると卵黄テンペラの脆弱な画面はけっこうはがれてしまったりして少しがっかり。しかし絵を描くためだけにある部屋なので、何でも入る。絵を描いても置くところがないからどんどん描く気がしないなぁと、最近もっぱらスケッチなど紙ものに限っていたのだが、突然テンペラをどしどし描ける環境が整ってしまい、今度はどんどん描かないとすごく損するような気分になる。

 会社を辞めて、絵を描き始めた頃、油彩でもやってみようかなぁーと思って少し描いていたことがある。その時、ふと思いついてモネ風に(つまり印象派風に)描いたら何だか何を描いてもうまく描けてしまうような気がしてびっくりした反面こわいような気がした。むろん、そうしたものはすぐに飽きてしまって、「はしにもぼうにもつかない」たぐいのものなのだけれど。スタイルによって描かされている、というのだろうか。あるいはそれを見るスタイルによって見方を強いられている、というのだろうか。つまり、西洋風のものに好感を抱く気分の一種とでもいうべき。

 

8月3日(土)雨のち晴れ

 このホームページのタイトルでもある「器用仕事」に見られるような、「野性の思考」に深く感銘を受けたのは、それが西洋の思考=科学的思考を相対化するものだったからだ。しかしむろんそうである以上、科学的思考に定位して、それを前提として、「野性の思考」ははじめて成り立つ(昨日の「夏休み」のように)。つまりそれは何も捨てない。どこからも逃走しない。
 同じように、「物語」や「意味」を排除するためには、それらを前提しなくてはならない。「物語」からの逃走は、「物語」が存在して初めて成立する。あるいはまったく異なる地平、例えば人以外の地平へ逃げ込むしかない。しかしそうしたとたん、私は自分が「物語」から逃走していたということすら覚えていないだろう。それはつまり無意味である。
  「物語」の排除は、常にそれに先立つ「物語」を前提し、そこに依存していなくてはならない。つまりそれは「物語」を「歓待」している。

 やっと今日で2週間つづいた夏期講習が終わり、これから2週間ほど労働から解放される。
 夜、「アトリエ」を見に行く。妻が知り合いのつてで見つけてきた、超格安のアパートの一室。すでに妻が手続きをすべて完了している。一般的には超格安であるにもかかわらず、それでも借りる決意をするのに数ヶ月を要してしまった。とても広くて心地よい。いわゆる「夢にまで見た」アトリエである。躊躇することなく、一気に踏み込んでいこう。「馬車馬のように」働こう。

 

8月2日(金)晴れ

 「毎日夏休みだといいのになぁ」という主張は無意味である。もし毎日が夏休みなら、夏休み以外の日を待ちわびることになるだけであろう。しかしこの誤謬を笑ってすますことはできない。すべて過ちはこうした視点から始まる。

 「善は善ではない」という文章に子どもたち(中学生)は違和感をもたない(けっこうたのもしい)。「じゃあ、”机は机ではない”も成り立つのか」と聞くと、そんなわけはない、と切り捨てる。しかし文の構造上は二つの文は同型である(「AはAではない」)。「だって、机はいつも机だけど、善はいつも善じゃないから」と彼らは鋭い。もちろん、「善はいつも善だ」とごり押しできないことはないかもしれないが、きっとそれは昔の話である。なぜなら、語の意味とは、使用のことであるから。つまり、事態は事実ではない、というか、実存はイデアではないというか、存在者は存在そのものではないというか、きっとそういうことである。おしまい。

 

8月1日(木)晴れ

 夕陽ににじんだ雲と、紙の上でにじんだ絵具とは、ともに自然の現象である。では描き困れた絵画は。

 

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