[PR]生年月日で2010年占い鑑定:初回無料!貴女の運命運勢を占う

 

器用仕事日記

〜2003年2月〜

2月28日(金)くもり

 昨日のつづきを少しやる。鉛筆で、8枚も同じものを描いていると、本当に作業をしていると実感する。
 しかしその上に色をのせたとたん、すぐさまできあがりそうになることに気付く。8枚はプロセス風に段階をおってすすまねばならないのに、4枚ほどで「完成」図に達してしまいそうになる。

 

2月27日(木)晴れ

 22日の日記に書いた絵を具体的に作り始める。最初、12枚程度のものにしようと思っていたが、8〜9枚(たて3枚、よこ3枚、真ん中を空白にするか、何も描かないか)にし、対象を石にする。それを「歴史主義」というタイトルで呼ぼうかと考える。「歴史主義に抗して」という意味で――つまり、それは完成へと向かう直線的な時間軸を表わしたものではなく、ただ単に1つの対象を描いた数枚の絵なのだ。
 しかしそんなことをする必要があるだろうか。つまり意味ありげなタイトルをつける、というような。ただ制作過程を描いたものではないということ(この部分は22日の日記からはずいぶん遠ざかった)だけを伝えればよいのではないか。

 プレゼンス。現前。いわゆる「画像」によって、時間的、空間的に相前後するものが並置されても何の不思議も違和感もない世の中に住んでいて、逆にひとつ前の時間の画像を見て、次へ進む時間軸を感じ取るという感覚も自然なものだと思っている。しかしどうなのだろう。こうしたあふれんばかりの「画像」がなかった時代、ひとつ前の時間が次の時間と隣り合わせに置かれるというのは、不思議なことだったのではないだろうか。それともそうした時間感覚はそういう時代的なものではないのか。現前するものが現在、ここにあるものだとするなら、過去や未来派現前しないもの、記憶や期待として存在するもので、逆に言えば今ここにあるものではないのではないか。いや、どうだろう。
 
現前している、という言葉が、「今、ここに」を差すとすれば、それはあまりに狭く、偏ったものの見方なのかもしれない。過去/現在/未来、ここ/あそこが同時に「今、ここ」にあるということに不自然さを感じるのは、モダニズムを経た経験なのではないか。ひとつ前の時間が次の時間と並置される、ということに不思議さを感じるのは、そう感じている不思議な私という存在を照らし出している。
 これを「歴史主義(に抗して)」という狭い文脈でとらえるのはやはり正しくない。もっと広い領域を射程に入れるべきだ。

 「制作過程」「手順」だと考えるなら、すでにこの絵を読み違えている。いや、意味を与えたということに気付くべきである、というべきか。私はひとつひとつがそれぞれ「完成品」であるように作ろうと思う。

 私はひとつの石の9枚の絵(うち1枚は石膏ぬりしただけの木製パネル)を描こうとしているに過ぎない。それは、角度や光のあたり具合や置かれた場所や、何か今ではそんなどうでもいいちがいですらちがいなのだから、同じ角度から同じ光のあたり具合、同じ場所でもたいして問題はないだろう。

 「1つの石についての9枚の絵」

 私は見る者をだましたり、ためしたりしたくはないので、なるべく誤解のないようなタイトルをつけるべきだろう。

 

2月26日(水)晴れ

 仏像を写真に撮る人がいるが、たとえば仏像を絵に描くとしたら、とても違和感がある。一方、建物を描くのには違和感がない。では、絵の絵を描くことはどうかと言うと、模写と呼ばれてしまうだろう。現に写真の写真を撮った人がいたが、ほとんどその真意を理解してもらえなかったのではないだろうか。

 

2月25日(火)晴れ

 DMが届く。しかし思ったほどよくない。ああ、なんだろうこれは、とひとが手に取りたくなるような、そして手に取った後も大切にしたくなるようなもの、それをながめているうちにいろいろな「意味」がたちのぼるようなもの、をいつか作りたいものだ。
 少し資料も手直しをする(こちら)。 たとえば、映画やドラマの予告編は、本編よりもずっと面白かったり、ぞくぞくしたりする。「クレイ島」というアイデアも「予告編」のようなもので、本編が限りなくうすっぺらなものになっていくような不安を覚えてしまう。しかしだからといって妙に密度の薄い必然性とか「意味」などを捏造したくなるのをおさえなくてはならないと思う。この不安も「予告編」の一部なのだ。

 

2月24日(月)雪

 全く積もらなかったのだが、今日は一日雪が降っていて、とても寒い一日だった。ずいぶんスケッチに出かけていない。以前はこんな日でも欠かさず出かけて行って描いたのに。

 

2月23日(日)くもりときどき雪

 あることをして、あることをしない、ということの「理由」を提示することができる、という風には私には思えない。もちろんそれらしい理由や意味をひねり出し、誰かを説得することはできるだろうし、世間でそのように呼ばれているものを「理由」というのだ、という議論は間違っていないと思うが、決して理由「そのもの」みたいなものはありえない、と思う。そういう意味で、そのものの「意味」というものは存在しない、したとして、それはそう呼ばれている別の何のもかにすぎない、と思えてしまう。

 

2月22日(土)晴れ

 制作過程そのものを描く、という絵。何枚かの絵によって構成された石などが描かれていく作品。1枚目は石膏ぬりした木製パネルの上の鉛筆描き。2枚目は下塗り。3枚目は大まかな色のせ…12枚目あたりで「完成」。
 それは1枚の絵が完成していく「過程」、ととらえることが自然ではあるが、数枚の未完成の絵と完成した1枚の絵があるだけなのだ、という言い方もできる。しかしどうとらえようとも、強くひとつの関係性を志向している、ということは確かだろう。だからそれは「意味」を内包している。それは限りなく構成的であって、物語性は少ないように見える。しかしもちろん、それはまやかしだ。つまり、それを「完成」を強く志向する関係性の提示ととらえるならば。そしてそこでそれはひとつの反転図となる。つまりそもそも「完成」がひとつの「物語」に過ぎないことを示すための、多数の「未完」「途上」。その「未完成」とは、それぞれの度合いに応じた「未完」度という意味で、それ以上進むことはないのだから、そういう意味では「完成」であると同時に、「完成」した1枚の絵は、ほかの多数の絵が目指している場所と捉えないかぎりは「完成」たりえない。つまり、1枚目の鉛筆描きが志向されているとするならば、それは第一番目の絵であり、そこからの消去がめざされていると考えることも可能だ。あるいは大きな円環ととらえるならば、完成・未完という「物語」が、直線性で一時的なものであることも露呈しよう。
 まだ描いてもいない絵についてとうとうと述べるのも妙なものだが。

 

2月21日(金)晴れ

 私が「意味」や「物語」を嫌う理由のひとつには、そうしたものを考えたり見つけ出したりするのが面倒、ということがあると思う。たとえば枯れ葉を描いていたりするとする。それを私は、ただただそうである、というぐあいに受け取りたくなる。つまり、「意味」も「物語」も何もなく、ただ気づいたらここに座って枯れ葉を前に筆を運んでいたのだ、と。むろん、それもひとつの「意味」であり「物語」であって、ひとつの態度の表面である。それは暗にそうでない「意味」や「物語」からの差異をうたっている。たとえば、枯れ葉にもののあはれを読み取ったり、自然の連鎖やはかないもの、作者の身体そのもの、等々。
 以前はそういうのがむしょうに嫌だった(実は今もだが)。そんなこと考えずに絵を見てほしい、そう思った。いや、絵に限らない。いちいちものごとに「意味」や「物語」を読み込むことなく、人生をそれとして生きていくことはできないものかと思った。私たちは「長い」人間の歴史の最後尾に位置していて、その一本の線をたどるとさまざまな「私たち」の「意味」や「物語」が話し始める。そういう考え方にはどうも違和感を感じてしまう、というような。
 しかし要するにそれはそれが優れているかどうかなのだと思う。優れて説得的な「意味」も度が過ぎればあやしいのと同様に、素朴な「物語」もそれはそれで飽き足らない。知的な興味をそそり、考えもしなかったような地平を私は見たい。自分の知をひけらかすのではなく、自らが崩れていくのもものともせぬような探究心、求道心。あるいは底抜けに深い愛情や、無垢な精神。自分が深い愛情や無垢な精神をもっているなどとは夢にも思わないような人のそうした「物語」を私は聞きたい。ただ、そういうことなのだと思う。「意味」や「物語」が嫌なのではない。「意味」や「物語」の名で呼ばれる、それらしさが嫌なのだ。

「枯れ葉」 テンペラ、パネル サムホール

 

2月20日(木)くもりときどき雨

 「意味」や「物語」を無力化しようとすることは、私に関してだけその効力をもちうるのではないだろう。それが可能・不可能にかかわらず、そうした意志は波状に広がって、ひとの「意味」や「物語」をも奪うこと、少なくとも減じることになるかもしれない。いや、それこそがすでにして「意味」のはじまりに足をおいているということなのだが。

「枯れ葉」 テンペラ、パネル サムホール

 

2月19日(水)くもり

 どのような意味や物語に取り囲まれていようとも、この絵は私が描いているものだし、描いたものだ。それだけは確かなことだろう――そう言いたくなる。しかしそんな「確信」こそまさにばかげたものだろう。
 私に絵を描かせているもの、それを「いい」とか「悪い」と思わせるもの、それに「意味」を与えたり「物語」を与えたり、与えなかったりするもの、つまり、私を「
人間」にし、絵画を「絵画」にしているもの。

 

2月18日(火)晴れ

「枯れ葉」 テンペラ、パネル サムホール

 

2月17日(月)晴れ

 毎日、間違ったことをしているんじゃないか、という気分が常にあたりにまとわりついて、もやのように取り巻いている。

 

2月16日(日)くもり

 日帰り温泉へ。少し湯冷め。

 

2月15日(土)晴れ

 疲れた。

 

2月14日(金)晴れ

 山に、枯れ葉を拾いに行く。つららがあって、そこから落ちるしずくで絵が描けそうだ。

 DMの版下ができる。再来週には出来上がるとのこと。

 物語や意味と対決している地平では、いまだそれらそのものの中にいると言える。物語を単なる物語としておくことなく、そこに意味を読み込んでいくこと。それも説得力に富む、大きくて強力な意味、魅力的な意味、それが問題だと思う。

 

2月13日(木)晴れのち雪

 山に枯れ葉を拾いに行こうと思っていたら、みるみるうちに雪が降り出し、辺りの空気はその軽くて白いもので満ちていった。

 私はいったい何をしているのだろう、というとき、私は自分のしていることに「意味」を見出そうとして、そう自問しているのだ。たとえばそれが、お金になるとか、誰かのためになるとか、そういった「意味」があれば、確かに救われる。しかしそういったものなしに、ものごとに感動することができるのではないだろうか。「できるのではないだろうか」などと自問してしまうところに、私のぎこちなさがある。

 

2月12日(水)晴れ

 「引用」による絵画。そのスタイルの探究ではなく、それらスタイルを鳥瞰する姿勢、スタイル。

 

2月11日(火)雨

 久しぶりの雨だ。とてもあたたかい。猫たちに、中に入ったりのぼったりして遊ぶ「建物」のようなものを買ってくるが、あまりに小さくて低いためか、入らないしのぼらない。つめもとがない。

 レンガについての本を読んでいるのだが、日干しれんがなどに見られるように、世界中のいたるところでレンガは使われてきたのだが、日本ではほとんど使われることなく、明治期になって西洋化の中、ほとんどはじめて使われ出したという。ただ、都市建築としてレンガが使われたのはロンドンにおいても大火の後、ということで歴史は浅い。逆に日本では関東大震災によって導入され始めたレンガはすぐに使われなくなっていく。

  

また作ってみたクレイ・アルファの印。Cとαの字が入っている。

 

2月10日(月)晴れ

 児玉靖枝は抽象的な作風で知られる作家だが、その作品は私がもっとも好きなたぐいのものである。7,8年前、雑誌『アトリエ』か何かに掲載されているときに知ったのだが、つい最近とある雑誌のバックナンバーで、具象性を押し出した近作とインタビューを読んだ。しかし具象であろうと抽象であろうと、パラパラめくっただけですぐにそれと知れるその作風に感銘するとともに、そこで氏が語っている内容も、その間ほとんど何ひとつ変わっていないことに驚かされる。当たり前のことなのだろうが。
 氏が言われる要点は、ものとものとの間、ということである。抽象的な作品を描く前は、それこそ写実的なホンモノそっくりの静物画、たとえば石などを描いていたそうだが、そのときに描いているのは、ひとつひとつのものというよりも、それらの間なのだそうである。
 私が今描いているのは枯れ葉一枚、石ひとつ、といったものだ。レンガをふたつ描いたところで、その関係を重視しているわけではない。それら実際にはいろいろなものの間にあるものを、石膏パネルの上にひとつだけ取り上げてくること。その貧しさが、今描いているものへの私の不安や疑問なのだろう。 逆に言えば、風景画を描いてきたことへの反動か。

 

2月9日(日)晴れ

 宮城県美術館へ行く。宮城県出身の何人かの作家を展示しているのだが、絵画よりインスタレーションの与える印象は複雑で強烈だ(むろん、だからどう、という意図はない)。それは対象(それが物理的に存在する、しないを問わず)そのものを作り出すのに似ている(厳密にはちがうものだが)。つまり、ある対象を写し取った絵画を、さらに写し取ったようなものではないだろうか。たとえば私は風景を絵にするが、私が描いた絵を風景にしたら(絵をもとに風景を物理的に作り出したら)どうだろう。そこで抜け落ちてしまうもの、よりリアルになるもの。

 

2月8日(土)晴れ

 「物語の排除」うんぬんというのは、結局のところ、「絵画なるもの」への私の違和感の表明なのではないかと思う。
 たとえば「国家」という物語は、宗教という物語にかわる「個人主義」という物語の提示であり、それは絵画のモダニズムが歴史画や宗教画にかわる「絵画自体」という物語の提示であるのと同様である、ということが言えるだろう。そして国家の構成員たる個人が、個人であるがゆえに細分化していく可能性をもつように、絵画そのものは雑多なものであって、それを支える平面など、思えば空想の産物に過ぎない。その「絵画なるもの」というきれいな平面に対する私の拒否反応が、こうした言葉でつづられているのではないかと思う。

 

2月7日(金)晴れ

 写真の現像をしたのでいくつか並べる。ほかにこんなページもできた。

 

 個展のDMの写真はやはり船を模したテーブルが入っている下左にする。下右はクレイ島というアイデアが出る前に撮っておいたもの。

 

 

 

2月6日(木)晴れ

 レンガを描きながら、枯れ葉も描く。しかしこうした絵を描いていくと、風景画がとても複雑なものに思えてくる。目に入るさまざまなものを同時に描く、というのはいったいどういうことなのだろう。どうしてそんなことをしようと思うのだろう。

「枯れ葉」 テンペラ、パネル サムホール

 

2月5日(水)晴れ

 レンガを描き始める。そもそもテンペラの顔料からして土だったりするので、ほとんど苦もなく描けてしまう。

「2本のレンガ(部分)」 テンペラ、パネル F8号

 DM用にいくつか写真を撮ってはいたのだが、昨日思いついた「クレイ島と交易するアルファ号」のアイデアにとりつかれてしまったので、船のかたちをしたテーブルを中心に撮り直す(現像中)。しかし、少しコミカルになってきてしまっただろうか。様子を見るための時間が必要だが、DM原稿は今週中には出さなくてはならない。どうしよう。
 とりあえず今考えているタイトルは――
  「クレイ島だより 〜アルファ号に乗って〜」
  「クレイ島だより 〜アルファ号航海記〜」
  「アルファ号に乗って 〜クレイ島で見つけたもの〜」
  「アルファ号だより 〜クレイ島でつくられたもの〜」
  「交易船アルファ号に乗って 〜門脇篤個展〜」

 

2月4日(火)晴れ

 左はクレイ・アルファで、ペーパー・ウェイトにと売っている大理石である。実物は7.5cm四方。これらを並べたら美しいだろうと思っているうち、会場にあるひとつのテーブルとそれが結びつく。
 事務所のとなりの展示スペースは、鉛をはった壁や個性的な大小のテーブル、アールデコ風の背の高い椅子と、下の写真でもわかるとおり、とても魅力的な空間なのだが、写真左手の奥にかすかに見えるテーブル、これがボートを模したテーブルなのである。

 船なので、帆に張ったロープ(鋼鉄製)に、旗をつけたらどうだろう。旗というのはしかし常にとても強烈な意味をもった記号であり、流れからして私がもっとも敬遠しそうな題材ではある。
 だが、この大理石をカラーコピーして旗に見立てるという案を思いつく。しかも社長さんに話を聞くと、大理石も石であるから、その地域の色を表わしているという。つまりそれは掘り起こされた大地の旗なのである。

ボートを模したテーブルに旗をつける

 さて、すると今度はこのボートに名前をつけたくなってくる。「アルファ号」。そしてボートなら目的地が必要だろう。つまり「クレイ島」。展示してあるレンガやタイルを産出する(架空の)島である。ならば私は旅人だろう。アルファ号に乗り込み、クレイ島を旅する人。つまり今回の個展は、私がそこ(クレイ島)で見聞きしたことを発表する場なのだ。

 

 「クレイ島の四季」とか「クレイ島の植物」といった絵画も展示するつもりだが、たとえば私は本のような形状をしたタイルやレンガのサンプルを、「クレイ島の本」として展示したり、タイルのサンプルのカラー・チャートに、何らかの文章を付して並べたりするつもりだ。訪れる人は(あまりいないかもしれないが)、それらについて、どれがサンプル(クレイ島の産物)で、どれが報告(私の「作品」)なのかと思うかもしれない。そしてやがてそうしたことを問うことの無意味さについても気づくかもしれない。どうだろう。

 

2月3日(月)晴れ

 アトリエで、石や枯れ葉を、「ただ見たままに」描こうと思い、実行しているとき、ふと私は自分が何をやっているのだろう、何か取り返しのつかないことをやって膨大な時間をふいにしてしまっているのではないかという思いにとりつかれ、絶望的な気分に襲われたりする。いったい私はこんなものを描いて、いったい何をしようと言うのか。むろんつまらない理由を考え出して、そこに「意味」を与えることは可能だろう。とても説得力に富んだ説明だってひねり出せないことはないかもしれない。たとえば――
 「絵画」は、装飾的で即物的で、情緒的で思索的で、その雑然とした何ものかを差して言われる言葉であるが、たとえば「これは絵画ではない」とか「これは優れた絵画だ」という時、おのずとそこには問われることなき「絵画」の「意味」が裏面に付着しているわけである。
 それを「絵画とはこうあるべきだ」という権威主義的で抑圧的な本質主義だと断罪することは、ポスト・モダニズムの今日、たやすいことではある。ではどんなものも絵画と呼びうる、という態度を表明すればいいのかと言えば、それは何も言っていないと同じようなもの、どころか、「絵画とはこうあるべきだと言わないという、こうあるべきだという態度」、であるに過ぎないだろう。つまり、絵画の可能性を語る以上、「絵画なるもの」は前提されている。
 できうれば私もその絵画の可能性というもの、失われたり問い直されたり、発明されたりでっちあげたりしていくこの営みに、自分も参加していきたい。むろんいつも自覚的にではないものの、きれいにまとめてしまえばそういう思いで絵画を含めた何ものかを制作しているのではないか、と思うわけである。
 ――だから私は即物的な側面からこれを描き、同時に抑制された情緒をそこに見る、などという具合に。ばかばかしい。
 無意識の存在。それを私は感じているし、それゆえに私はひとがつまらないと言ったとしても、どんな説得力に富んだ理由がなくとも、こうしたい、ああしたい、と思う。そこにどんな「意味」があるのか。強く独我論的世界を感じるゆえんである。
 たとえば私は花屋で、厚さ5ミリばかりの鉄でできた直方体の花入れを見つけ、これを本のカバーみたいにして、中に自分の木製パネルに描いたテンペラの枯れ葉を入れたら、さぞ素敵なことだろうと思う。しかしそれはひとには伝わらない。実際にやってみせなくては彼らにはわからない。やってみせたところでわからないかもしれない。しかし私にはもうわかっているのだ。そしてそれがどうであろうと、つまりひとが認めようとどうだろうと、私にはもうそれでそれは終わりなのだ。
 同じように、妻が捨てた黒いセーターをごみ箱の中に見つけたとき(それは長らくうちの猫の毛布になっていたのだが)、私はそれを少々洗って、レンガに着せてやったらどうかと思う。いや、私のテンペラに着せてやってもいいかもしれない。そしてそれは穴の開いた靴下たちを、レンガにはかせてやったらどうか、という考えにたどりつく(むろんそんなことされたら嫌がる人は多いだろうが)。どうだろう。 あるものは実際に行われ、あるものはそのままになり、私の中で「終わって」いく。どうだろう。
 

2月2日(日)晴れ

 枯れ葉の絵を描く。

「枯れ葉」 テンペラ、パネル サムホール

 クレイ・アルファの個展では、会場にレンガがいっぱいあるので、レンガを描いた踏み絵を作ろうかと思う。また、レンガを描いた絵とレンガを対置するのもいいかもしれない。

 

2月1日(土)晴れ

 私の絵が今月の表紙をかざる地元情報誌『仙台っこ』を本屋で買う。子どもの頃、「パリっこ」(今ならパリジャンというだろう)と言うのを聞いて、妙な響きだと思ったものだが(お菓子の名前か何かみたいで。しかし「ロンドンっこ」に比べればまだしも)、何でも「っこ」をつけてしまえるものなのだという感慨がここにはある。ほしい方は仙台市内の書店かこちらで(そんな人いないか)。

 ということで、今週はまったく絵を描かない一週間だった。

 

先月の日記
日記のたぐい
掲示板
メール
ホーム

 


[PR]背中ニキビケア:29日間でスベスベ背中の秘密