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Atushi Kadowaki 2003

 

器用仕事日記

〜2003年4月〜

4月30日(水)くもりときどき雨

 「建築における倫理性」や「良心」といった言葉を目にする。よいものを残していこう、確かなものを継承していこう、という文脈で使われているのだが、それと対になっているのが新しい技術やスタイル、ということになるのだろうか。たとえば外壁の素材で言えばタイルやペイントといった「伝統的」なものに対してコンクリート打ちっ放しやガラス、各種金属といった「未来的」「ハイテク」なもの。
 しかしもしそうだとしたらこういったたぐいの話は、話のはじめから一方通行の行き止まり(というか行き詰まり)のように思える。たとえば私がテンペラを用いて描くのは伝統的で保守的で、逆にアクリルを使ったりインスタレーションを作ればそうではなくなるのだろうか。
 あるいは機能主義とそうでないもの、等々。

 

4月29日(火)晴れ

 私ははじめにレンガを紙ねんどでつくり、その質量感に圧倒され、そのもののもつ説得力のようなもの、平面がもたないそれにひかれたのだと思い、石や角材や板やコンクリートブロックを作ろうと思い、すでに一部始めているのだが、今日改めて自分が作ったレンガをながめていてふと思った。それは確かにレンガのかたちをしている。しかしそれは単に直方体をしている、ということを意味しているに過ぎないのではないか。つまり、その形を「レンガ」という言葉に置きなおしたに過ぎない。実は「レンガ」ということが大切なのではなく、直方体であるということが大事なのではないだろうか。たとえばそれをレンガというものを一度も見たことのない人が見たときのように見たとしても、同じような感動を覚えるのではないだろうか。つまりそれはレンガに似ているということ、何かをたくみに模倣しえたということによってある種の感動を与えているのではなく、ただそういうものとして私の琴線にふれてくるのではないのだろうか。たとえば抽象絵画が何かを写し取ったものではなく、ただそういうものとして感動を与えるように。なぜなら私はある種のレンガには感動するが、別のレンガには何も覚えない。同じようにして私はある種の角材や板やコンクリートブロックに心ひかれるが、別の角材や板やコンクリートブロックには何も感じない。もしかしたら、それらはレンガや角材や板やコンクリートブロック「としての」かたちをしていなくてもいいのではないか。何か私に感動を呼ぶようなそれらしいかたちと色というものがあって、私はそれをある程度の立体感をもって作りたいと思っているのではないのか。なのにあまり想像力や知性がないために、行き当たりばったりに出会った膨大なレンガや角材の中の偶然気に入ったものを写し取るという作業をしているだけなのではないか。

 

4月28日(月)晴れ

 コーヒー豆を作ろうと思う。これはにおいを発しない(紙ねんどなのだから)。しかし見る人はにおいを「感じる」だろう。

 絵画を前にしたとき、われわれはある感覚を制限されてそこにある。手ざわりや音やにおい。見ることのみによってそれらを想像することが求められる(というか、想像してしまう)。そこにある位置関係。何かを制限することによってそこにないものを暗示するということのうちに、そうしたものの営みの「意味」があるのか。ではたとえば盲人のように、あらかじめある感覚が制限されている人はどうなのだろう。もしかしたらそれは常にある芸術作品に接するようにして、この世界に接しているということではないのか。

 

4月27日(日)晴れ

 紙ねんどで角材や丸太を作ってみよう。その大きさや質量感はとてもすばらしいものにちがいない。また、40センチ角ぐらいのコンクリートブロックも作ってみたい。それらはいわば重量を消された「もの」なのだ。絵画がものを平面に置き換えるように、私はそれらを重さの(あまり)ないものへと置き換えるのだ。しかし、それは目の中で残る。絵画が平面でありながら目の中には奥行きが残るように。

 

4月26日(土)晴れ

 疲れた。

 

4月25日(金)くもりのち雨

 スケッチに出かけるが、途中から雨で断念。

 におい。たとえば、春のにおい。夜のにおい。雨のにおい。猫を連れて歩いていると、猫はいつもそうした空気のにおい、場のにおいにくんくんと鼻をならしている。するとたとえば夜の街に自転車を走らせているとき、春の夜の開けた感じがにおいとなって感じられ、きっとこれを猫がかいだらくんくんくんくんするだろう、などと思い描く。それは「これだよ、これ」といったふたりの間の共通の感覚、つまり共感として在りうるように思う。そして、動物は考えないとか、何かを理解できないということの言(つまり人間はものを考える動物である、みたいな「考え」)の無意味さを感じる。ウィトゲンシュタインは、動物は考えないから言葉を話さないのではなく、ただ言葉を話さないのだ、と言ったが、それはつまるところ、人間はただ言葉を話しているのだ、ということである。たとえばカエルくんは胃に異物が入ると、胃を口から出して異物を取り除くのだそうである。そして人間はもちろん、そんなことはしない。しかしもし人間だけが胃に異物が入ったとき、口から胃を出して異物を取り除くとしよう。どうなるだろう。私には容易に想像がつくのだが、「だから」人間は神に選ばれし存在だとかなんとか言い始めることだろう。逆に、カエルのキライな人がその事実を知ったらどうか。それは単にそうであるにもかかわらず、カエル「特有の」気味の悪い「本性」を露骨に表わす「事実」として表象されるだろう。しかし「それでも」生きものは大切にしましょう、みたいなもう何言ってんのかわけわかんないようなただし書きとともに。

 紙ねんどで作ったホフマンレンガがほぼできる。すごい質量感である。

レンガ 紙ねんど、テンペラ 210×100×60

 

4月24日(木)くもりときどき雨

 大きな絵を描きたいといつも思っているのだが、大きなパネルを買うにはそれだけお金もかかるし石膏もいるし、移動にも手間がかかりそうだし置き場所もとりそうだし、油彩とちがって失敗したからそれをつぶしてその上にというのもやりにくいしで、結局いつも小さなものばかり描いているのだが(最近では紙ねんどの上にすら)、これはきっと気合いが足りないせいにちがいない。

スケッチ 水彩、紙

 何かが在る「ということになっている」ことへの驚き。それは、あるものを「芸術」と言い、あるものをその名では呼ばないことへの驚きと同じものだ。それは驚くにあたいする。しかし「おかしい」と言うのは間違っている。たとえば、「マンガは芸術とは呼ばれないのに、ピカソの描いたマンガみたいな絵は芸術と呼ばれるのはおかしい」みたいな。それならこころみに私がここにいる、ということを疑ってみればよい。中には「深遠なことをお考えだ」みたいにほめてくれる人もいるかもしれないが、ほとんどの人はあきれて行ってしまうだろう。あるいはまた、「マンガは日本の文化だ(となった)」ということが言われるときの驚き。間違っているとか、やっと世間が追いついたのだとか言うのでなく、まさにそうしたことが「起こる」ことへの驚き。

 

4月23日(水)雨

 雨降りだった。雨はいい。スケッチができないこと以外は。

 

4月22日(火)晴れ

 とてもよい天気なのでごるとスケッチに出かける。すばらしい景観に出くわすのだが、なかなか手に入れるのは難しい。しぼんでいく。もし、毎日そうしたものを目にすることができるなら、私はそれを何とか写し取ろうと必死になるにちがいない。部屋に転がるレンガを見るたびに、この感じを何とか手に入れたい、というこの気持ちから類推して、そう思う。以前は本当に毎日、車もないので自転車やバスや電車で出かけていって、いろいろなところでスケッチをしたものだ。それも、そんな手間をかけている以上、何らかの「成果」をあげて帰らねば、という鬼気迫る気分で。そうして多くのスケッチをしたけれど、どうなのだろう。何かを見つけに行って、とって来る、みたいなこと。

 
     
  しかし写真になるとゼンゼンちがっていまいち。フィルムも悪いし。(できたスケッチはもっとひどかったが)

 

4月21日(月)晴れ

 ホフマンレンガを作り始める。また、紙ねんどの石に着彩を始める。ちなみにホフマン窯は韓国では現在も稼動中だそうだが、環境問題を理由にあと数年で廃棄されるのだそうだ。

かつて日本で稼動していたホフマン窯の図

 

紙ねんどでつくっているレンガや石とそのお手本

 

4月20日(日)雨

 入院していた義母が退院。散った桜の花びらで吹きだまりができている。

4月19日(土)晴れ

 一日塾でたいへん。あっという間に夜である。

 

4月18日(金)晴れ

 個展最終日。ほとんどの人は先週の土曜か昨日(つまり私がいないとき)来たようで、私が会場にいた日は毎日ひとりくらいしか見かけなかったのだが、最終日とあって数人の人に会うことができた。

 
     

最終日のそれぞれ。

 
     
 

準備中の屋台。明日から縁日があるとか。

 何人かの人が「どこまでが展示なのかわからない」ということを口にしていたのだが、まさにそれこそが私の言わんとしたことであって、それを「それ」にするのは、言ってみれば「言語ゲーム」なのだと思う。
 たとえば柄谷行人はウィトゲンシュタインとマルクスを手がかりに、「価値」の生成について「探究」している(『探究T』)。つまり、「売り」と「買い」との非対象性について。「売り」=「買い」として決定されるものとしての価格(価値)という幻想に対し、商品は売られない限りは価値とはならないということ、つまりはその中に内在的に価値があるのではなく、その場その場で決定されていく「言語ゲーム」としての価値について。
 私はそこに「物語」という語をあてはめてみたいと思う。つまり、すでにそこに内在的にあるものとしてのそれではなく、そこを訪れ、集う人々によって時々刻々生まれていくようなそれ=「物語」。私がいかにそれをこばもうとも、あるいは生み出そうとも、いわばそれを「買う」ものがなければ生まれないものとしての「物語」。
 やっと私の「「物語」の旅」も、終着をむかえそうだ(そしてそれはもちろん、はじまりである。正確に言えば、はじまりもおわりもないそれ。まるで「アッラーは産まず生まれず」…)。

 

4月17日(木)晴れ

 暑いくらいである。ゴル(ねこ)を連れてスケッチへ。田おこしが始まっている。

 紙ねんどにもいろいろあって、私は「かる〜い紙ねんど」とかいう表示があるものを使っているのだが、あんまり軽すぎてスポンジみたいになるものと、けっこう土っぽさが残っているのとがある。後者が好みだ。
 おととい拾った板をとりあえず平面にテンペラで描くことにする。M40号のパネルがあったのでこれに描く。

 地元紙で個展2日目あたりに取材に来てくれたのだが、やっと記事になったらしい(義母の家でとっているのでコピーをもらう)。ちなみに、絵のタイトルは「一枚のレンガと三枚のレンガ」の誤り。これだとコスースからの引用であることがわからなくなってしまう(もとからわからないって)。

河北新報2003年4月17日夕刊

 

4月16日(水)晴れ

 紙粘土は100円ショップのものを使っていたのだが、私の生活圏内にある2件の100円ショップから大量にあった白い紙粘土がすべてなくなってしまったので、昨日拾った板に使われるであろうおそらくは20個分以上の紙粘土をどうしようかと思っている。それ以外にも紙粘土の石もつくりはじめているし、レンガも続行するつもりである。…ああ、画材屋で買えばいいのか。
 ところで、中に心材を入れるかどうかにとても迷ったのだが、入れないことにしている。きっと入れても入れなくても、見る人にとっては何か外部的要因(たとえば私が「中は新聞紙ですかすかです」とか「その新聞はバグダッド陥落のニュースやハムラビ法典盗難の記事が載っている新聞なんです」とか)がない限り、「それそのもの」であるわけだが、つくる私にとってはもうちがう。今乾かしている白いそれらをながめながら、中身まで粘土だ、と思うことは、今の私にとって何か安定している。

 ところで、バグダッドでは略奪が横行し、治安の維持を求める「市民」の姿が報道されているが、これはまったくナポレオンがカイロを陥落させたときと同じで、それを見せられているみたいな感すらある。カイロを牛耳っていたマムルークたちが「自由」と「正義」のナポレオン軍に駆逐されると、それまで「圧制に苦しんでいた」住民たちはいっせいにマムルークたちの邸宅を略奪する。一方で住民代表らは新たな統治者に対して治安の維持を要求する。それが統治者の責務だからだ。というより、統治者の存在意義みたいなものとは、住民にとってそれ以外に何があるというのだろう(ちなみに、さまざまな「民族」「宗教」からなる代表者会議という、まさにフランス革命の成果を取り入れた博愛と自由平等の精神に満ちた組織を作らせて「住民自身による」統治をかかげるが、結局は住民の蜂起にあい、これを弾圧せざるをえなくなる)。それがフセインであろうとアメリカであろうと、結局は寄生的な存在である統治者について、「よき統治者」とは安全を保障してくれるもの、そしてできうるならば、より寄生の度合いが低いものだろう。「われわれ」は「統治者」が自分たちの代表だ、などと言えるほど鈍感でもないし、洗練されていなくもない。といより、この両者の間の他者性のようなものが、よい統治を保証するのではないかとすら思う。たとえばあるアメリカ人の談話、戦争には反対でも、兵士の命がけの姿にはうなずかざるをえない、というとき、それははじめあった他者としての位置が、「われわれ」へと移行してしまったことによって、批判の支点=視点を消失してしまったのだと思う。

 

4月15日(火)くもり

 やっと今日あたりから制作活動を再開。とりあえずゴル(猫)をつれてスケッチへ行く。あたたかくなって、手が凍えてしまうのを気にすることなく描けることの幸せ。この、風景の中に自分がいる、という感じ。結局はここにいる、というそのことのために絵を描いているというような、この世界にただ在る、ということのために日常の茶飯事をあきもせず繰り返しているというような、この感覚。それは倫理的なものではあっても、道徳主義的なものではないだろう。たとえば、「だから」この世に生まれてありがとう、みたいな。

 

稲を干す杭がしまってある小屋。私はこうした小屋をたくさん描いてきたが、今度はこれそのものを会場に展示してはどうかと思う。会場と持ち主の双方から了解がとれるような機会があったらやってみたい。

 

さがしものをするごる(左)

 ずいぶん前から読んでいたはずのくだり、ウィトゲンシュタインの言語ゲームに関する比喩、ボール遊びをしている人たちの次のような文章と、「物語」の生成とがやっと私の中でつながる。

 「われわれは、ひとびとが野原でボール遊びに打ち興じ、現存するさまざまなゲームを始めるが、その多くを終わりまで行わず、その間にボールをあてもなく空へ投げ上げたり、たわむれにボールをもって追いかけっこをしたり、ボールを投げつけ合ったりしているのを、きわめて容易に想像することができる。そして、このとき誰かが言う。この全時間を通じて、ひとびとはボールゲームを行っているのであり、それゆえボールを投げるたびに一定の規則に準拠していることになるのだ、と。
 でも、われわれがゲームをするとき――<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながら――規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(『哲学探究』83)

 ウィトゲンシュタインがくり返し批判の俎上に乗せていたのは、あらかじめ何か「本質」や意味」のようなものが存在していて、隠されたそれをわれわれが明らかにするのだ、という態度だった。私はそれを何度も読み返し、理解したように思っていながら、これまでずっとその批判が自分自身に向けられていることに気づきもせずにいた。私が「物語」と言うとき、「意味」と言うとき、それはまさにプラトン的なそれである。そうした「物語」や「意味」を自ら生成しておきながら、それをなくしたい、と言う。まさに永劫回帰救いようのない世界。
 私たちは「物語」を語るのではない。私たちが語るものが「物語」と呼ばれるのだ。

 スケッチをしていた田のあぜ道に、1メートルほどのいい具合に古びた板が落ちている。私は今度はそれを描こうかと思いながら、いや、これを紙粘土で作ってレンガのときと同様にしてテンペラで着色してはどうだろうという考えに取り付かれる。その説得力はとてつもないものになるだろう。ばかゴルが田の横を走っている側溝を伝って行き、いつしかそれはトンネルになっていて、出て来るのにすごい時間がかかるなどのハプニングがあったりしたものの、私はその板切れを無事アトリエに持ち帰ることに成功したのである。

拾った板

 

4月14日(月)晴れ

 個展のようすをだいたいつくり終わる。あとで個展会場からアップしておこう。
 もう春期講習からはじまって、1か月ちかく絵を描いていない。こういうとき、私は自分が空虚であるのを感じる。私は、私である、ということだけでは成立しないことを強く感じるのは、こういうときだ。つまり、「我思う」は私の存在を保証しない。そこに他者=差異が介在しなければ。たぶん、デカルトの意図も同じだと思う。

 

4月13日(日)晴れ

 仙台でも桜が咲き始めている。

 塩は、私たちの体内を流れる塩分を思わせる。また、地の塩、といった言葉を(ちなみに私は海の塩を使っている)。それがかつて私たちのからだに入り、そしてまた出ていったという連想。だから塩は、私たちである。
 そんな物語を語りたくなる。しかしそこには物語の「強度」こそあれ、どんな「根拠」もない。そんなことを言ったらすべてが私たちである、という物語ができてしまう。実際そうした物語が、だから私たちの兄弟を大切にしましょう的な言説を生み出している。しかし一方それは同じようにして、だから私たちの思いのままにしてもいいのです的な帰結を生んでもいっこうに構わないのだ。そして実際この同じ出発点から相異なるいくつもの物語がとうとうと流れ出ている。その根拠のなさ、恣意性から目をそらすことなく、意味や価値を語ることとは、いったいどういうことなのだろう。

 

4月12日(土)雨

 今日は朝から晩まで塾なので個展会場には行かない。というより、私の感覚、かくあれという意味も含めての、から言えば、制作者である私と鑑賞者である私とがいるわけではなく、参加者としての私がいるだけで、その意味でその場に参加する人(それは直接その場にいるということだけを意味しているわけではなく)がひとりでもいれば十分それは成立する。
 わりふられた役割におさまったり、役割をわりふったりしないように。常に「他者」としてあること。自らの「道徳」や「規則」を超えて感動したり、共感したりすることの可能性。

 

4月11日(金)晴れ

 言葉にすることができること、つまり考えることができることは、もしまだ気づかれていなかったとしても、やがて気づかれるものであるなら、すでに存在していたと言えるのではないか、と言いたくなる。
 それまでにはなかった様式やアイデア、たとえば「抽象表現主義」や「ユートピア」は、それまでには「無かった」にも関わらず、それが見いだされると、それとして理解され、受け入れられたりする。つまり、「無い」という語の使い方に誤りがあるのではないか、と言いたくなる。
 もっと日常的な例、「クリスマス」や「ゴル」(猫の名前)はどうだろう。それはかつて「無」く、やがて「在る」ようになったけだが、どうやってそれは「在る」と理解され、受け入れられた(る)のか。それがわれわれの想像の範囲内にあるからこそそれが可能なのであり、もし本当に想像できなかったら存在しない(よく言われる「想像もできなかった衝撃の事実」などというときの「想像できない」とは違う意味で)。すると逆に時間的なラグこそあれ、いずれ想像しうる可能性の範囲内にあるものは、存在しうるもの、今はまだ無いけれどいずれ存在するかもしれないもの、ということなのだろうか。
 たとえば全く今まで存在していなかった語を想定してみる。「ごばめるんて」。私が適当にキーボードを打つことによって生じたこの語に、これから私が何らかの「意味」を読み込み、毎日使うことにしたら、それは「存在」していることになり、同じようにして無数の、しかしわれわれが想像しうるという限りにおいては有限個の存在を生じさせることができる、ということは今はまだ無いけれども、いずれすべてが生じる可能性がある、ということでそれらは無いのではなく、在るのだ、ということができるだろうか。あたかもどこか暗い倉庫の中に眠る無数のものが、いずれ使われる日を待っているかのように。
 しかしこれこそが、批判されるべき態度なのだ。それはまさに「存在しうるもの、今はまだ無いけれどいずれ存在するかもしれないもの」であり、それで終わりである。それは「存在」ではない。「存在」は、生じた後に、それに与えられた名のことであり、その逆ではない。

 

4月10日(木)晴れ

 個展のようすを少しアップ。

 

4月8日(火)くもりのち雨

 あたたかな雨の降る日だった。
 個展会場にあるパソコンからファイルをアップロードできることがわかり、個展中は日記を更新できそうである。個展の内容などをおいおいご紹介したいと思っています。

 

4月7日(月)晴れ

 搬入。明日から個展である(詳しくはこちら)。今回は場所先行型で、ひきずられるようにして後付の文章を説明として書いているのだが間に合わない。会期が長いので、その間に得られることを見すえよう。

絵をかける前の壁。かすかに残る、それまでかけてあった絵の残像。

 

 

搬入や会場づくりを、釣りの好きなワタナベさんと今年から専門学校に通うことになった未来のカリスマ美容師Yojiくんに手伝ってもらう。上左は、「コーヒー窯」をつくるYojiくん。右ができた「窯」。訪れた人が崩しては積み上げられるようにと思っているので、そのたびに写真を撮る手はず。
ちなみにワタナベさんには大理石を並べた「大地の旗」や、川の石を並べた「川の旗」を作ってもらう(むろんもっと重いものやめんどうなものも運んだり並べたりはりつけたりしてもらったり)。
私は塩を山盛りにした「塩庭」を作りました。

4月6日(日)晴れ

 今度は石を、紙ねんどで作り、黒く塗ったパネルに張ろう。つまり昨年せんだいメディアテーク小野画廊Uで展示した何枚かの石の絵を。そして再び今年のせんだいメディアテークでの同じ催し物に出したらどうだろう。昨年見た絵が立体化されていることに気付いた人がいたなら、それは2年がかりの作品だったということになる(そこが最もおもしろい)。

 

4月5日(土)晴れ

 現前しないものとしての言語。現前しないものを表わすものとしての言語、ではないのかとも思うのだが、それをあえて現前しない存在と考えてみる。そうしたあり方は、いわばひとつのフィクションであり、一般には「無い」と言われるもので、そうした意味では混乱を引き起こすようにも思うのだが、それを「在る」と括弧つきでつづってみよう。すると、「どこにもない場所(ユートピア)」も、そのようにして示されたとたん、そのように「存在」する。つまりこの規則に従うなら、「存在」しないものは、想像できないものである。想像できない以上、われわれはそれについて考えることもできないのだから、それは確かに文字通り存在しない。
 
しかし一般に「無い」と言われるものはそうしたものではなく、想像はできるけれども「実在」しない、というものだ。しかしでは空(そら)はどうだろう。それは空(くう、から)という読みをすることからもわかるように、そこには何も無いことを意味している。しかし同時に、それはある特定の範囲を表わすもので、「くう、から」は外に対する内の空洞や不在を表わしている。つまり絶対の無を表わしているのではなく、特定の「場」における無を意味している。ということは、結局ある場所の「存在」を表わしているのではないか。つまり、ある場所が無という状態に在る、という。
 あるいはひとがその空に何かを見いだすとき。たとえば喜びや豊かさ、やさしさを読み込むとき、祈るとき、そこに、眼には見えない何かを見いだすとき、空はなにも無い場所を差すのではなく、そうした存在を差して使われるのではないか。

 アーイシャの眼。

 

4月4日(金)晴れ

 東北の地に生まれ育ち、今なおそこに住まう者として、私が感じるものに、ふたつの敗戦意識、のようなものがある。ひとつは15年戦争の敗北の結果、いわゆる「日本人」としての私がそう感じる「戦後」。それは日本は誤った侵略戦争を起こした結果、アメリカ等連合国に敗北した。もう二度とこのような過ちを繰り返してはならない、というもので、戦争体験者の思いは別として、戦後世代である私などは、侵略戦争に対する反省が戦争全般への反省(というかアレルギー?)にまで拡大され、戦争そのものを議論することを放棄する安易な平和主義、結局もう負けるのは嫌だから戦わないといった短絡的な思考停止に逃げ込んでいるように思える。
 もうひとつは明治維新時の内乱、戊辰戦争による奥州列藩同盟の敗北で、これは日本を勝者・敗者に分け、今日なお、たとえば都道府県名と都道府県庁所在地の一致・不一致の中などに残存しつづけている。それは東北の地に生きることを、後進の地に生きることと感じさせ、常にここにない都市の模倣を、しかし決して達成されることがないことを知りつつも認めることのできない東京化を、自らに課しつづけている。
 むろん私のこうした「意識」は、単なる考えすぎ、被害妄想、と言うこともできるだろう。かつて蝦夷と呼ばれ、歌枕に歌われた「みちのく」の地、坂上田村麻呂、多賀城、かつて栄えた藤原文化と伊達政宗のくに、といった表象は、私自身が受容しつつ再生産しているもの。まったくそうだろう。

「1つのレンガと3つのレンガ」
レンガ、テンペラ、カラーコピー、パネル

 コスースの『1つの椅子と3つの椅子』を引用して、つい先頃作った3つのレンガの絵を『1つのレンガと3つのレンガ』と名づけよう。それは@「本物の」レンガと、Aそれを私がテンペラで描いたレンガ、B同じく「本物の」レンガをカラーコピーしたレンガ、からなる。
 なんなのだろう、そうするとこれは。シニフィアンなきシニフィエ? ただのタイトルの窃盗…。

 

「4つのレンガ」 紙粘土、テンペラ、パネル

 紙粘土でできた4つのレンガ。
 実際には、軽く、やわらかく、もろいものなのに、重く、固い、堅牢なものに感じられるということ。しかしそれがある種の認識の移行によって(「紙粘土でできている」と告げられることによって)、その感覚を失ってしまうということ。それも不可逆的に。たとえば、「そのとき機がハイジャックされていたことについて、ほとんどの人が気付きませんでした」という文章のもつ独特の感じ。それから、子どもが何かを「わかった」というときのある種の感覚。その媒体としての私の位置。
 しかし、この紙粘土でできたレンガはとてもすばらしい触感をしている。それはある意味単純な形をしており(詳しく見ると複雑ではあるのだが)、色彩も同様に単純である(これも実は複雑なのだが)という点に、その魅力があるのかもしれない。あまり複雑な形状や色合いをしていたなら、そこに気をとられてしまい、いかにも作り物めいた感じをうむのではないだろうか。

 

4月3日(木)晴れ

 リアルなレンガの絵や立体を作っているとき、そのもとになったもの(オリジナル)に限りなく似せようと思う一方、似ているかどうかとは別に、いかにそれらしいかという点が重要になってくる。つまり、それはすでに「それ」になっている。それはつくられる前、つくりはじめられた瞬間から、もう「それ」であることをはじめたのかもしれない。そこに生じる差異。ずれ。それこそが、存在と呼ばれるものなのではないか。

「1つのレンガ」 紙粘土、テンペラ、パネル

 presenceは、「現前」と訳されて使用される一方、普通の英語の意味として、存在のほか、見えないけれども存在しているもの、亡霊、を意味している。「在る」ことにはそうした多層のレベルがある。そしてそれを生じさせているもの。

 

4月2日(水)晴れのちくもり

 本は書とは少しちがう。それは書=テキストに限らず、あらゆるものを包含する形式をさす言葉なのだ。そしてそれがもとは「根元」の「もと」を表わしていた、という由来もおもしろい。

 「嫌いなものがない」という世界を想像できない、という意味でそれは私の世界にとって常にそうある。なくてもいい、ない方がいい、というとき、それはすでにそうあることを前提している。

 

4月1日(火)晴れ

 「自律的」「純粋な」の対概念として、相互依存的で浸透的、ということを考えるとき、私は「〜を愛している」というときのあり方、つまり何かを所有することなしに愛することと、何かを所有することで愛するということとの間に生じるのと同じような「対」を感じる。むろんそれら自体、幻想であり、捏造なのであろうが。

 

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