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展覧会雑感

横浜トリエンナーレ 2001

〜エドワルド・カッツとオノ・ヨーコを読む〜

 

エドワルド・カッツ 「ジェネシス(創世記)」 1999 Photo:黒川 未来夫 (横浜トリエンナーレ2001での展示風景) Eduard Kac "Genesis" 1999 Photo:Mikio Kurokawa ( Installation view of YOKOHAMA 2001 )

GFPバーニー

 NHKの「新日曜美術館」で横浜トリエンナーレの様子を見る。現代アートと言えば論争がつきものという気がしていたが、どれも視点を低くした、イメージ的に言えば「やわらかな」作品が紹介されており、中にはおそらくそうでないものもあろうが、今日の主要なテーマである「癒し」「共生」「多様さ」といったものに沿った作品作りがなされているように感じた。
 そうした中にあって、微生物に遺伝子操作をほどこしたというエドワルド・カッツ氏の「作品」は、いかにも論争を巻き起こしそうな(いやもうすでに本国アメリカでは物議をかもしだしたという)かつての「現代美術」的色彩を色濃く残している点で際立って見えた。
 そもそも何がアートかといった「真実」探索の旅に残された「暗黒地帯」(もっともこの語が歴史的に含意してきたように、それはわれわれにとっての「暗黒地帯」に過ぎないのであるが)は今日ほぼ消滅しているように思う。ここに至るまでの道のりは、われわれの常識をくつがえし、新たな視点を提示し、われわれをより深い問いへといざなうという、長く険しいものであった。その結果われわれは、「これはアートです」と提示されて驚くほどの、うぶな「常識」などもう持ち合わせていないように思われる。新しいものに慣れてしまったわれわれに、さらなる新しいもので応じようとする営みは、そこで必然的にあやういものとならざるを得ない。モダンアートの旗手たちが、既存の価値観を打ち砕くために、とにかくそれまで存在しなかったものを作り出していった時、そこにはわれわれに今まで見えなかったものを見せようという偉大な創作意欲があったわけだが、同時に無限の欲望を満たそうとする、ある種空虚な行為という側面も持っていたと思う。つまり無限に新しいもの、今までにだれもやらなかったことをしていくという行為は、精神的な深さや対象に対する共感や敬虔な気持ちをともなったものになるとは限らず、珍奇なものを追い求める売名行為、キッチュで自己満足的なものへと転落していく危うさをその内に潜ませており、逆に言えばその反動が今日の内省的な作品群を生んでいるという側面もあると思うのだが、その悪魔的な魅力の生き残りがカッツ氏にとりついているように思える。
 アメリカで物議をかもしだしたカッツ氏の「作品」とは、遺伝子操作をされたうさぎ(もちろん生きた)で、特定の光をあてると緑に光るというものだった(今回出品作とは別)。
 同じく遺伝子操作された豚の鼻だけが光るという、カッツ氏の「アート」をさらに巧妙に行った研究グループの営みが、「研究成果」として新聞紙上で紹介されていたのを考えあわせると、カッツ氏の言う「アート」というのは、こうした研究にその名を冠しただけの、単なる「レディ・メイド」の域を出ないものではないかと思われる。しかしインタビューでの氏の真剣な表情や興奮したもの言いを見ると、氏は自分を、生の持つ尊厳という、 これまでだれも手をつけられずにいたタブーに挑む戦士(芸術家)と位置付けているのではないかと思う。 そしてその根拠はどうやら聖書にあるようだ。すなわち、聖書の創世記にある文章、自分に似せて作った人間たちに、この世の生きものすべてを支配させようというくだりである。氏はその文章を遺伝子配列に置き換え、その配列に従って今回の出品作品を作り出したという。ここには氏が自分の創作の意図と根拠を、聖書に根拠をもつものであるとの巧妙なアピールがある。私にはこれが、イスラムを語ってテロリズムを起こすテロリストの論理そのもの、あるいはアートの名のもとにさらに洗練された形でのそれであるように思える。そしてテロリストの本当の意図が、単なる自己の政治的地位を高め、政治生命を維持していくためのものであるように、氏の隠された本当の意図が、単なる売名以上のものであるとは思えない。テロリストの独自のイスラム解釈が真の世界性をもたないように、神に似せてつくられた「人間」は、生物すべての生命を自由にできるなどという氏の素朴な聖書解釈が、本気で何かの問題を投げかけているなどと受け取ってい
る、トリエンナーレのコーディネーターやメディアの意図を疑いながらも、そうしたものすら受け入れてくれる懐の広さには一応感服するものである。ぜひとも今回のテロで何の関係もないのに嫌がらせを受けているイスラムやアラブの人々にも、同じような寛容さを持ち合わせてもらいたいものだと思う。

 

オノ・ヨーコ 「貨物車」 1999-2001 Photo:黒川 未来夫 (横浜トリエンナーレ2001での展示風景) /Ono Yoko "FREIGHT TRAIN" 1999-2001 Photo:Mikio Kurokawa ( Installation view of YOKOHAMA 2001 )

 オノ・ヨーコ氏の作品について、どうにも気になっていたことがある。それは「平和」というメッセージを打ち出すために、貨物車に銃弾を撃ち込むという手法をとったことについてだった。それに疑問を感じるのは素朴に過ぎるとは思いながら、どういう意図が隠されているのか、なかなか読み解くことができなかったのだ。おそらくこれは、「平和のための戦い(戦争)」という、言葉自身がもつ自己矛盾を指摘するだけの論法によっては汲み取ることのできない、非常に深いメッセージになっているのだと思う。現に氏は今回のテロ事件を受けて、トリエンナーレへの出席を断念、アメリカでの反戦キャンペーンに奔走しているそうだ。平和を実現するための暴力というものが最低限の水準では必要という諦観に立って、それをどこまで平和理念に近づけられるかという不断の努力をしていく、そうしたメッセージこそがこの貨物車に読み取られねばならないだろう。むろん出て来る結論がそうそう特殊なものであることは期待できない。おそらく重要なのはそうした場所に立って語るということであり、とりあえず戦争は反対というのではなく、武力を行使するにせよどこまで精確な検討を重ねていったのかという点がもっともっと突き詰めてなされるべきなのだ。今回のアフガニスタンへの攻撃が、自衛権の拡大解釈に過ぎないというのは明白であり、その作戦行動が実にずさんなものであることは、湾岸戦争以来飛躍的な進歩をとげ、被害は最小限ですむという当初の説明と、メディアを通して入ってくる甚大な被害を報じるニュースとが、これだけ食い違っているというのを見れば一目瞭然だ(そもそもなぜ精密爆撃に集束爆弾が使われるのか)。開戦前後にアメリカ政府が行った説明と、その後おそらく世界に住む大方の住民が受け取っている印象との間にはものすごく大きなずれがあると思う。もし今行われている武力行使が正当であるというのなら、民間人も含めた今現在の過剰な程の被害が本当に必要なものであるということを、全員に納得させなくてはならない。ラディン氏が(もし引き出されるとして)法廷で裁かれた時には、同時にこの作戦に関わった責任者全員が、同じく法廷でその正当性を証明できなくてはならない。そうした平和を守るための不断の戦いが払うべき真摯な態度とその悲痛なほどの代償についても、氏はその作品で言及しているに違いない。

2001.10.31 

 

〜関連サイト〜

横浜トリエンナーレ公式サイト

KAC WEB(エドワルド・カッツ個人サイト)

 

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