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展覧会雑感 1995

 

「彫刻家ダニ・カラヴァン」(宮城県美術館)

 この展覧会を契機として、宮城県美術館の前庭には、ダニ・カラヴァンの彫刻「マアヤン」が設置されることとなった。無表情な白い四角柱が数本並んでいるといったものだが、美術館に行くたびにこれを目にする。そしてこれを目にするたびにこの展覧会のことを思い出し、そのたびにダニ・カラヴァンのロマンチシズムの中にはパレスチナ人についての言及は一切ないということを思い出す。
 芸術は人間生活や政治とは無縁というのは全くの虚構であり、むしろそこから立ち上ってくる何ものかである、とすら言える。そうしたものを感じさせないものがあるとしたら、それは故意にそうしているか、無意識のうちにその中に取り込まれているということであろう。そしてそれがまた新たな誤解をふくらませていく。
  ダニ・カラヴァンはユダヤ人の彫刻家として、1948年に建国されたイスラエルに次々と、かつてのイスラエル王国をほうふつさせるようなノスタルジックな彫刻、というよりは建造物を制作している。その一方で、ナチス・ドイツによって迫害されたユダヤ人同胞へのレクイエム的な作品も発表している。というのが、この展覧会での展示内容である。
 ところで、私にとってイスラエルというのは、すなわちパレスチナのことで、するとどうしてもこの同じ土地を表すのにわざわざ2つの名前を使うのは、同じ土地に住む2種類の人間を表すためであるように思えてしまう。すなわち占領している者と占領されている者である。それはマスコミでは「イスラエル」と「アラブ人」という非対称な言葉で表される。一対一の対応をするよう、「ユダヤ人」・「アラブ人」と呼ぶことはないし、同じように「イスラエル」・「パレスチナ」と呼ぶこともない。そもそもこうした単純な区分け自体が意味を持たないわけであるが。
 そして、ダニ・カラヴァンである。ナチス・ドイツに迫害された被害者として、安息の地イスラエルを「約束」された土地で彼は、私の目から見るとそのナチそのものといってもいいような荘重で威圧的な彫刻、建造物を作り上げ、自分たちの「民族的」な誇りを(まさにそのことによって被ったあの悲劇を忘れたかのように)誇示するとともに、その一方で自分たちの傷をいつでも見える形に残している。そしてその傷はいつまでも自分たちだけのものであり、イスラエル国家建国の犠牲となった多くのパレスチナ難民(まさに彼らはナチがユダヤ人にしたことを、ユダヤ人からされたのだ)の傷となることはないのである。その意味で私は「ダニ・カラヴァンはパレスチナ人について言及していない」と言う。
 しかし振り返ってみれば、われわれ日本人も同じものを突きつけられているのだ。例えば、中国人や朝鮮人についての言及をせずに作品を作るたびに非難されていたのでは、たまったものではない、ということになるだろう。そしてもちろん、広島に原爆を落としたアメリカ人が、常に日本人について言及しながら自分の作品を作ることは皆無であろう。しかしそれでも、その作品に直接的には現れないにせよ、われわれのうちにはそうした反省や共感に立った制作態度が必要なことは言うまでもない。そしてそれをどこまで自分のこととして出していけるかに、その人の持つ作品の質が反映してくると言えるのではないだろうか。それを汲み取る鑑賞者の側の理解についても同様である。
 芸術作品は、その審美性のゆえに、とても巧妙に政治的権力を内包していると私は思う。シェークスピアにどんな政治的意図があるというのか、というような人はエドワード・サイードの古典的名著『オリエンタリズム』を読むべきだ。そして権力というのがわかりやすい姿をした国家や政治家たちではもはやありえず、われわれ大衆のうちに巧妙に姿を隠した、無意識下の文化のコードであるというミシェル・フーコーの理解に耳を傾けるべきだ。

Atsushi Kadowaki 2001.5.21  

 

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