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映画の館

せんだいメディアテーク「地中海映画祭」を観る

 

エルマディナ ユスリー・ナスラッラー監督/1999年/105分/カラー/エジプト/35ミリ

アレキサンドリアで活動したギリシャの詩人コンスタンチン・カバフィの詩から想を得てつくられた作品。人生を変えようとパリへ渡ったアリは、負傷をきっかけにカイロに戻り、本当に大切なのはどの町に暮らすかではなく自分が誰なのかを知ることだと気づく。(せんだいメディアテークHPより)

 秋晴れの実によい天気の日だった。午後から見たいと思っていたせんだいメディアテークの「地中海映画祭」へ行く。地中海というと日本では南仏やイタリア、ギリシアといった南ヨーロッパのイメージが強いかと思うが、むろんアラブ諸国やトルコも地中海諸国であり、今日見たのはエジプトのユスリー・ナスラッラー監督による『エルマディナ』(1999年)。一度カイロへは行ったことがあるので、何となくあの暑苦しい雰囲気を、よく晴れて乾いた空気とともに思い出した。聞かなくなって久しいアラビア語の、あの同じく暑苦しい発音もなつかしい。そして映画が終わった後、日本語監修者にアラビア科の同期生の名前を見たときも(ああ、私は成績が悪くて一年留年したから卒年は違うのだった)。
 カイロに住む大学出の若者アリーは役者志望なのだが、いい仕事もなく、親から八百屋の手伝いをするように言われたり、横暴な友人との表面的なつきあいや、自分への期待が高いゆえにその存在を重荷に感じている従妹など、自分を取り巻くその閉塞感に耐え切れず、パリへと脱出するが、そこではアラブ人の自分になど職もなく、八百長ボクサーとしてすさんだ暮らしを送る。そうした中でアラブ人不法労働者たちと交流を持つうちに、自らの根であるアラブ社会を再発見していく。錦を上げずには故郷へ帰りにくいアリーであったが、八百長試合を放棄したために報復を受け、命こそとりとめたものの記憶を失い、エジプトへと国外追放される。帰ってきたアリーを迎えたのはよくも悪くも何ひとつ変わらない故郷だった。そうした関係をひとつひとつ前向きにとらえていくアリーが描写され、ラストシーンでは映画俳優になっているという少し唐突なハッピーエンドではあるけれど、おおむね希望へと向う内容には好感がもてた。
 しかし妻はかなり違う印象を受けたようで、その暗さが何とも心に重かったようだ。有名なパレスチナ映画『ガリラヤの結婚』をはじめ日本で紹介されるアラブ映画は、おそらくは紹介する人たちの選定基準も手伝ってだろうが、おおむね社会問題を扱ったものが多い。ということは暗くなること必至であり、そうした映画を少しは見ていた私には、この映画は実に明るく思えたのだが、やはりその底を流れるひとりひとりの力ではどうにもできない重さのようなものがあるのも確かである。あんなに開放的で西欧よりのエジプトですらそうなのだから、他の多くのアラブ諸国、イスラム諸国の閉塞感はいかばかりか想像がつこう。そしてこうした心情的な生の感性から、テロリズムへと身を捧げてしまう者たちの気分をうかがい知ることは可能ではないだろうか。いつも負け役の八百長試合ばかりをやらされていたあのアリーの中には、いつその魔の手がしのびよっても不思議はないのではないだろうか。

9月23日(日)晴れ

 

五月の雲 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督/2000年/120分/カラー/トルコ/35ミリ

美しい五月のアナトリア、映画監督のムザファが新作にとりかかる。ムザファの両親、友人、幼い甥など、彼を取り巻く人々の間で起こる事件を詩情豊かに描いた作品。東京国際映画祭でも上映された長編第一作「カサバ」で注目を集めたジェイラン監督の第2作。

 昨日にひきつづき「地中海映画祭」(せんだいメディアテーク)へ出かける。今日はトルコ、レバノン、モロッコの3本が紹介されたが、1本目のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督『五月の雲』(トルコ、2000)があまりによかったため、1日の許容量はこれくらいかなと思い、帰ることにした。
 昨日のエジプト映画『エルマディナ』が荒削りで、都会的で、動的な気分をもっていたのに比べ、このフィルムは、映像的にも構成的にもずっと洗練されており、牧歌的、静的なものを基調にしている。監督の「自伝的」というよりは「私小説的」な内容で、あまり売れそうにない映画を撮っている映画監督が、両親や親戚の住む、自分の生まれ育った村へと映画を撮りに戻って来るというストーリーである。
 主な登場人物は、政府の土地調査員が、長年耕してきた自分の畑を取り上げに来るのではないかといつもおびえ、法的な根拠をもとに断固戦うという父。静かな田舎の暮らしを受け入れ、淡々とした日常を暮らす母。40日間割らずにいられたら音楽の鳴る時計を買ってもらえるというので、いつも大事にポケットの中に卵をしのばせている甥の少年アリー。都会(イスタンブール)へ出たいと思っているのにみなからの反対を受け、閉塞感のうちに日々を暮らす後輩。そしていつも冷めた視線でこれらをながめている映画監督。
 美しい田舎の風景の中で、どこにでもあるような、しかし当人たちにとっては逃れることのできない問題というには少しおおげさなもの(つまり日常)を抱えながら、ストーリーは静かに進行していく。まさにその日常生活がそうであるような足取りで。
 人物の描写は抑制が効いており、等距離で、緻密なものを感じる。おそらくは自分自身の分身であろう映画監督は、他人に対して寛大であるようでいて、実はそれが感情移入の度合いが低く、結局は自分自身が一番大切な人間であることを実に包み隠さず描いており、その自己批判的な鋭いまなざしは透明度が高い。
 甥のアリーの寓話は何とも奥が深い。40日間卵を割らずにいられたら欲しいが手に入る、そのことを通じて責任感を教えたいと母は映画監督に語る。おそらくは割るだろうけれど、それは問題ではないのだと。むろん少年は本気だ。そして何とも喜ばしいことに純粋である。映画監督がゆで卵にすることをすすめると、それはずるだと取り合わない。学校に行く前にどこかに隠しておいて帰りに取っていけばいいと言っても、それもずるだという。やがて少年は道で、見知らぬおばさんからどう考えてもむちゃくちゃなことに、丘の上までトマトを持っていくように命じられる。ポケットに卵、手に重いトマトのかご。もうすぐというところで、ポケットの中の卵は割れ、少年は放心、かごをけとばすとトマトは少年の絶望を色と形にしたかのようにばらばらと丘を転がり落ちていく。不条理な、一方的な規則。それを達成することの向こうにある果実を得ようと無条件にそれに応えようとする純真な心。それはいずれ押しつぶされ、もっと強固な別の形で再生するか、あるいはもう形をもつことすらやめてしまうかするわけだが、少年は鶏小屋にしのびこみ、新しい卵を得ることでこの現実に対処していく。そして最後には、それがヒヨコにかえってしまうという、まるで別の自分を見つける。
 登場人物の中でもっとも動的な人物として描かれているのが父だ。もう白髪の老人で、強硬に自分の土地は法で守られていると主張しながら、いつ来るとも知れぬ調査官の影におびえている。村からかなり遠いところにあるその畑を、父は本当に愛している。特にそこにある雑木林を。その木や葉に当たる光、風を、フィルムはかなりの時間を割いて描写していく。やがて調査官が知らぬ間に来ていたことがわかり、父は断固戦うことを再度宣言するが、結局家族の誰もが反対こそしないものの、積極的な協力をすることもない。思えばそれは一家の問題であるにもかかわらず、まるで父ひとりの問題ででもあるかのようだ。そして、そうした視点から登場人物をながめていくと、ひとりひとりの問題はどこまでもそれぞれの問題であって、決してみなの共通の問題としては意識されない。
 ただ救いなのは、それぞれがおのおのの世界とつながっているということだ。映画監督は自分の映画に、アリーは腕時計に、父は畑に、母は平穏な生活に。しかしそれこそが人間という存在の本来のあり方なのかもしれない。人間はみな自分の生のみしか生きられないのだから。しかしその自分の生を生きながらも、どれだけ他者への共感をもてるかが、人間の存在を超えた美しさであろう。目に見えぬ調査官に代表される他者は、何とも居心地の悪い存在だ。心を平穏に保つことは難しい。しかし他者がいつしか同胞になるとき、その不安感をはるかに凌駕した喜びを得ることができるだろう。それは理論でも何でもなく、長い人間の営みの中で培われた経験に裏打ちされたものである。どれだけの他者を、自らの中に導きいれることができたかということが、本来的に内と外とを分かつ孤独な存在である人間を、限りなく豊かにしてくれる飽くなき営みであろう。
 あんまり映画を見ない上に、最近はテレビでやるどたばたハリウッド映画ばかりだったので、久しぶりに映画らしい映画を観た気分。何かを読み込んでいくというのは、その読み込みが浅いとしても、楽しいものだ。映画に関わらず、わかりやすいというより理解など求めていない表現が横行し、それが推奨され、喜ばれる中、表現というのがもつ本来的な難解さが、他者性としてでなく、複雑さ、奥深さとして理解され、同胞として受け入れられていくことを願うものだ。

2002年9月24日(月)晴れ

 

あひるの書斎

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