Atsushi Kadowaki 2001

ねこと自転車と停止線

 

※本稿はねこのはっちゃん(本名ハッチ・ハチャトゥリアン氏)からの寄稿によるものである。
 一部ヒトにも読みやすいように編集者の方で手を加えたところもある。

 

 遠からず、自分は死ぬなと思うのは、例のあの鉄の乗り物のせいである。人間たちはそれを「自動車」をか「クルマ」と呼んで重宝がっているが、あれほど危険なものはない。
 まず乗っている人間がどれも自分勝手な判断に基づいてクルマを走らせている。教習所というところで彼らはその技術と規則とを習得することになっているらしいが、教習所の内と外ではその規則が大きく変わっているらしい。また、多くは忘れてもいいことになっているように見受けられる。それらをチェックする機会もない。われわれのねこ社会では考えられないような無法地帯が、暴力的な力でもってなし崩し的に押し広げられている、というのは言い過ぎだろうか。
 先日も友達のあひるくん(※ホームページ管理者門脇篤のこと---編集者注)が自転車に乗っているときに出会う危険について語ってくれた。「自転車」というのは「自動車」というものと名称こそ似ているものの、ほとんど対称的な乗り物であって、一方が平和でやさしい乗り物であるのに対し、もう一方は危険で暴力的、 クリーンで経済的に対し自然を汚染し浪費するもの、もの静かで爽快に対し、騒音に満ち閉鎖的なものである。このまるで正反対の乗り物が同じ場所を走るさまは、羊と狼がともに牧場に放し飼いにされているようなものである。羊がそれほど減らないのは、一応法という名の番犬がそれを監視しているからであるが、この犬はそれほど頭のいい犬ではないのでしょっちゅう羊が狼にやられたり、狼どうしが争ったりするのを阻止することができず、何かたいへんなことが起こってからうなり声を上げて駆けて来る。中には何か起きないと何もできないとか、あんまり厳しすぎるのもちょっと、などという犬さえいたりして驚かされる。
 さて、話が猫道にそれたが(※ママ。「横道」の間違いか---編集者注)、あひるくんが自転車に乗っていて危ない思いをするのは、停止線を大幅に越えて突進してくるクルマのせいだという。信号待ちの停止線ではともかく、優先道路ということで歩道などを走っていると、突然細い路地からクルマが飛び出してくる。一時停止の停止線を守るクルマはほとんどいない。おそらくクルマに乗っている者どもは、何でこんなに停止線は後ろにあるのか、これでは優先道路を走って来る他のクルマが見えないではないか、ということで停止線を越えてくるのだろう。しかし、では見通しがよければ停止線でしっかり止まってから優先道路に出るかといえば事態は逆で、今度は一時停止すらせずに優先道路へとおどり出すだろう。彼らの頭にあるのは他のクルマ族のことであり、歩行者(われわれを含む)や自転車は二の次なのである。
 しかし自転車に乗ってみれば、あるいは歩行者として歩いてみればわかる通り、交通の規則というのはみんなのためにできている。例えば一時停止の停止線がなぜあんなに路地の奥まったところに設定してあるのかといえば、優先道路を走っているのはクルマだけでなく、もっと近いところを自転車や歩行者が通行するのを想定しているからである。また、制限速度はおそすぎるという声もあるが、道路をわれわれが突然横断したくなったとき、きちんと止まれる速度というのがあの制限速度なのである。たびたび私の仲間だけでなく、彼らヒトもクルマの犠牲になっている。これは制限速度で走っていれば、ある程度は防げるものなのだ。クルマ族にとってはおそいのかもしれないが、自分たちの能力がどれほどのものだと考えているのか。それ以上の速度を出してふいの場合に対処できるというのか。生きている命を犠牲にしてまで出さねばならない速度、越えなければならない停止線というのは一体いかなるものなのか。これほどに危険な乗り物を操るという責任についてどれほどの自覚があるというのか。「なぜヒトを殺してはいけないのか」という少年の問いに唖然としながら、いつも危険に身をさらしながら通りを歩かねばならないこの状況には平然とし、自然環境を保護しようというほとんど全国民的な支持の中で、これほどまでに破壊的な乗り物については目をつぶり続けているという矛盾。いったいヒトがねこよりどれほどばかだからといってこんな状況を不思議にも思わずに日々暮らしていけるのか、私には理解に苦しむのである。

Atsushi Kadowaki 2001.6.6  

 

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