デモ・テープ 5
The Shape of My Heart
Side A Side B
1.悲しみのアーナンダ 5.The Shape of My Heart
2.スタリ橋 6.This is not America
a)橋の思い出
b)偽りのプラーリャック、 7.東へ西へ
開き直りのプラーリャック
c)橋の爆破
d)未来に架ける橋
3.おばあちゃん、ハイ
4.Pipes if Peace
デモ・テープつくりもとうとう5作目となり、そろそろまじめに絵を描いていこうということで、これからしばらくはテープ作りは、途中夏休みの夏期講習の時期をのぞいては、結局ほとんど毎日のように続けられ、とどまるとkろを知らぬこの勢いは、どこかでストップしなければならないものではあった。
前作「1999」からひと月。この間の大きな出来事は、やはり祖母の死である。1月30日、享年97歳であった。その人生のうち、私との関わりがあったのは手術から死までのわずかふた月間、それもほとんど意識を伴わない中でのものだったわけだが、私にとっては実に静かで安らかなものだった。私はこの、今まで言葉を交わしたこともない、眠りのうちにある祖母の手を握りながら、いっしょに窓の外をながめたり、本を読んだり、お茶やプリンを口に運んだり、リハビリ室へ連れて行ったり、お迎えに行ったり、顔をふいたり口をふいたりしながら、ゆっくりとした時を過ごした。
私は今こうしてどういうわけか、会社という利益集団を離れ、絵を描くという芸術制作の仕事を目指していこうということでやっているわけだが、それもここに来てさらに次の段階へとどきつつあるように思う。つまり、結局は芸術にせよ何にせよ、より正しい存在としての自分を実現したいという自己実現のための手段であって、その内容としては、何をしようと結局は同じことなのではないか、ということである。どんなことをしようとも、ひとのことを気遣い、常に自分が誤ったことをしていないかと気にかけ、よりよいものになろうという意識があるならば、結局のところ同じなのではないかということなのだ。その意味で、修行の道を選ぶ人は正しい。結局のところ、人生というものが修行に他ならないことを正しく見抜いているからである。
そうした意味から、私の絵を描くという姿勢も以前とは異なったものとなってきている。それは修行であり、自己実現の手段であってエンターテイメントでは決してないわけだ。ましてや商品でもありえない(もちろんそうは言いながら売ってもいくからいいかげんなものなのだが)。現実との間の微妙なバランスをとりながら、できる限りの自己実現を行っていく、というものになるだろう。そして結局はそれが最も正しい道なのだと思う。
祖母と過ごした短い期間は、そうしたものに最も近いものであったと言える。私は純粋な意味での自己実現を達成することができた。その中で、もののわかった親戚にもめぐり合うことができた。自分という存在をさらによくつかむことができ、これから進むべき自分の道にも確信を持つことができる。こうして私たちは、先人の歩んだ道をまた一歩と、たどっていくのである。その残した言葉の意味をなぞりながら。
Atsushi Kadowaki 2000.2.8