プロフィール

 

 「プロフィール」という言葉が表す一つの概念は、十分検討するに値するほどの問題点を持ち合わせています。例えば、一般に想定されるプロフィールというものが、出生年にはじまり、出生地や学歴、職歴、著書といったものにまとめられていったのはいつごろ、どういう契機でなのか、とか、そもそもそうしたことで何が得られるかという実質的なことよりも、何を情報として得ることができるとわれわれは考えているのか、あるいは考え込まされているのかといったことを考え出すと、切りがありません。

  そこでとりあえずここでは、1998年に『プロフィール』というタイトルで制作した下のようなものの一部を提示して、私の紹介に代えたいと思います。これは15cm×10cmの紙製のタイルに文章を印字して並べたもので、とある若者向けの公募展に出したものです。文章はある時期、「プロフィールが知りたい」という人に、名刺サイズの紙に印字して実際に配ったこともあります。ここでは私の撮った写真をまじえてご紹介します。

 

  「プロフィール」 Atsushi Kadowaki 1998

 

 

 枯れ果てた冬の大地は、私の心をとらえて離さない。ずっと、この季節だけを生きてもいいほどだ。風が吹く。枯れ草がいっせいに音をたてる。残りの人生を、この音とともに過ごしたい。

 

Atsushi Kadowaki

 あるひとつのイメージが私というものに関して宿ったとしたら、それをくつがえしていくことが、私の次の仕事となる。

 

Atsushi Kadowaki

 人生は追体験の連続だと言える。ある意味で、ひとの人生を生きることだと言うことができる。そのとき、その人たちはなぜそうしたのか。なぜそう考えたのか。日々体験し、理解していく。なぜそうなったのか。なぜそうせざるを得なかったのか。

 

Atsushi Kadowaki 2000

 伝えられないということの価値。ひとに伝えられないということ。自分に伝えられないということ。そして、教えることができ、教わることができるということの価値。

 

Atsushi Kadowaki

 価値として容易にとらえられないことに対する不安から、あらゆるものが否応なく値段をつけられ、相対化され、ある種の価値のコードの網の目にとらえられていく。それこそが本当の暴力的行為なのだ。

 

Atsushi Kadowaki 2000

 私は修道士の生活について考える。彼らが目にした光のこと。耳にした静寂。肌に感じた季節のこと。一年を通じて奇跡に立ち会う喜び。そして、もしかしたら自分もそうしたある時期を、彼らとともに過ごしたかもしれないという可能性について。

Atshushi Kadowaki 1998 

 

 

 

あいさつ

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