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引 用

Atsushi Kadowaki 1999

 

ミシェル・フーコー

 「沈黙は、不幸なことに、われわれの文化が捨て去ったもののひとつだと思います。私たちは、沈黙の文化を持っておりません。さらに言えば、自殺の文化も同様に持っておりません。日本人はその文化を持っていると思います。年若いローマ人やギリシア人は、同席している人々に応じて、それぞれ違ったやり方で沈黙している作法を教えられたものです。その当時沈黙は、他人との関係の特別な作法をあらわすものだったのです。沈黙は、洗練されるために必要な何かだったと思われます。私は、こうした沈黙のエトスが広がってほしいと願っています。」(「エトス」 1982.6.22のインタビュー)

 

 

ミラン・クンデラ

 「思考する者はみずからの真実を他人に説得するよう努めてはならない」

 「人間の条件のひとつとしての未経験。私たちは一度しか生まれない。まえの生活から得た経験をたずさえてもうひとつの生活をはじめることはけっしてできないだろう。私たちは若さのなんたるかを知らずに少年時代を去り、結婚の意味を知らずに結婚し、老境に入るときにすら自分が何にむかって進んでいるのかを知らない。つまり老人はおのれの年齢に無知な子供なのだ。この意味で、人間の世界は未経験の惑星なのである」

 

ジャン・リュック・ゴダール

 「ふと知らないメロディーを聴いていて、「ああ、これは何だろう」と惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように美しい映像に惹きつけられて、「ああ、これは何だろう」と人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたい。しかし名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも一年間ぐらい絶対に固有名詞を使わず、たんに彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安になるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディーに惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません」

 

野沢啓

 「それにしても国家犯罪たる戦争責任の問題を「わたし達」のものとして引き受けようとするとき、問題がいつのまにかひとりひとりの日本人個人の問題にすりかわっていることには注意しなければならない。国家-民族-わたしたち、というかたちでなしくずしに責任主体が転倒されていく。本来は国家(政府)がになうべき謝罪責任がひとりひとりの内面の問題に転化されていくのは論理矛盾である。国家犯罪の責任とは、個人の良心なり主体構築とはおのずから別次元の問題だからである」(「離脱の闘争のために」現代詩手帖1998.8

 

フィリップ・キャプトゥ

 「なににも増して私たちはヴェトナムに対して奇妙な親近感を感じ、さらにおかしなkとにはそこに戻りたいと望むようにさえなっていた。。。それは言うならば、いかに深く私たちが変態させられてしまったのか、あのモンスーンのつらさや偵察行動の消耗感やホットな着陸地点に降り立ったとたんに狙撃されるかもしれないという不安を分かち合ったことのない他の人々から自分たちがどれほど隔たったところへ来てしまったのか。そういうことの証しのようなものだった。普段の暮らしのなかで、そういう感情を味わうことは殆どなかった。私たちは民間人に戻っていたのに、そこで聞かされる言葉の数々はまるでよその世界のもののようだった。それになじむことなんて到底できなかった。私たちはいまだに戦い、戦友たちが死んでいったあっちの世界のほうに属していたのだ。。。私はまた、歩兵大隊という場所で感じられる緊密な生命感についても触れねばならないだろうとおもう。そこにはどんな恋人たちとも同じくらい、いやそれ以上に深い男同士のつながりがある。。。私の戦友のふたりは戦場で他の兵隊を救おうとして死んだ。そういった献身、単純さ、非利己性そして互いをつなぐヒンティメントは、化け物じみた特異性のほうが目をひきがちな戦場とは裏腹の人間味にあふれていた。しかもそれは、戦争というものがあれほど野蛮なものでなかったとしたら、生まれ得なかったろうとおもえるような優しさだったのである」("A Rumor of War"1978

 

宇波彰

 「現代では、写真に限らず、あらゆる私的なものが公的なものへと吸収されて行く時代のように思われる。たとえば、ある個人の財産とか趣味といったようなものは、そのひとのプライヴァシーに属しているものであるが、それが今日ではいつのまにか公的なレヴェルで、その個人に関する情報として吸収されてしまっている」(「メドゥーサの眼 写真の社会学」1986

 

杉田敦

 「<現実>とは創造されるものである。世界に存在する人間や事物、その他諸々の要素によって創り出されるものである。意図的なものであれそうでないものであれ、<現実>はそれらの要素の単純な、あるいは逆に複雑きわまりない絡み合いのなかから生み出される。しかし、それとはまったく別の意味においても、<現実>は創造されるものである。元々の<現実>とは遠く隔たった、まったく別のものとして創造されるのだ。この<イマジナルな現実>とも呼べるものは、本来の<現実>とはまったく関係がない。しかし、なぜそのようなものが創造されるのだろうか。結論を先にいえば、それは、何よりも現実が大きすぎるからである。。。<現実>とは対照的に、物語は多義的な要素が絡み合うひとつの現象から、その大部分を犠牲にすることで生み出される。しかもそれは、小説や戯曲のような、物語を前面に打ち出した分野にかぎられたことではない。例えば、膨大な資料を背景として、綿密な調査を踏まえて構成される優れたドキュメンタリーでさえそうなのだ。。。実際の<現実>は、両義的あるいは多義的な要素を数多く含み、因果関係を立証できないような出来事が頻発し、判定不能な状況があちこちに生まれ、およそ物語化することができない。そのような何かなのだ。。。わかりやすい因果関係で説明されるような場合のほうが奇跡的なのだ。人間は、知っている物事や人々よりも、知らない物事や人々のなかに生きている。。。このような、<現実>が湛える不気味なまでの深みの前では、いわゆる物語は無力である」(「リヒター、グールド、ベルンハルト」1998

 

ゲルハルト・リヒター

 「確かに、たくさんのスタイルがある。しかし。。。ひとつの概念や哲学、そしてもちろんイデオロギーなどというものがそれらを繋ぎ留めているわけではないのだ。「私」と「私の生活」がそれを繋ぎ留めているのだ」(パリ、1993

 

あひるの書斎

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