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7月12日(金)
私が、アメリカでのテロ事件とアフガニスタン攻撃、パレスチナでの半世紀にわたる抑圧状態、菜食主義から学んだことは、道徳や倫理的なものは問題を救わない、ということだ。
このようなことはあまりに当然であり、ばかげているという人がいるだろう。それについては問題がない。しかし、もし私がこのように書くことで、私が道徳や倫理的なものを否定しているのだと思う人がいれば、それはとんでもない誤解であろう。私は何より各人が授かった倫理的なものこそ、その人の世界の最も大切なもののすべてであり、そこへ向かって生きることが、幸福な生を生きることであるということを疑わない。しかしそれはある人の世界を救うことはあれ、問題を救うことはない。
テロ事件とそれに対する報復措置は、いずれも政治的な抑圧・被抑圧の次元で語られるべきことであり、その時に利用される「道徳」が、政治的な次元のものであることが前提されるべきである。例えばパレスチナでの自爆テロの論理が道徳的な次元のものであれば、それはとても反論できるものではない。道徳は当人にとっていつでも正しい。同じくアメリカやイスラエルのテロへの報復措置を正当化する論理には、道徳的なものを超越的なものとして含めてはならない。そうしたとたん、誰もそれを批判できなくなるだろう。
菜食主義に関しても、私は従来の姿勢が誤っていたことを認めざるを得ない。私がいくら動物を不憫に思おうとも、それは「あなた」の道徳ではない。私は政治的な手続きを経て、菜食主義を広めるべきであろう。むろんその時には手段としての「道徳」が利用されるだろうが、それはあくまで政治的な手段の次元として、つまり永遠不変の原理などではなく、常に問い直されることを許されたものとして理解されるべきで、絶対的な価値であってはならない。
絶対的な価値はもちろん存在する。しかしそれは「私」の中だけの話であって、「私」の真実は「あなた」の真実ではない。私とあなたが出会う時、言葉が通じると思うのは、私が私の言語で話すからではなく、私とあなたの言語で話をするからである。私が私の言語で語り始めたとたん、あなたには何も理解できないだろう。そしてそうしたことは、私にとっては意味があれ、あなたにとっては何の意味もない。
むろん、私は私の言語を語り、私の真実を追い求めるべきである。私は私の幸福をめざして生きることを、誰に否定されるいわれもない。しかし私が私であるのは、あなたがいるからであり、あなたがいる以上、私は私とあなたの言葉でものを語り、ものを考えることを必要とする。そしてそれは相対的な価値をもつものであろう。絶対的な価値をもってはならないであろう。
5月30日(木)
「宗教的な狂気は、無信仰から生まれた狂気である」(『反哲学的断章』)というウィトゲンシュタインの指摘は正しい。
何かに見守られているという幸せな宗教的体験からは、テロのような生への否定と肯定とをない交ぜにするような発想はありえない。ひとり無信仰だけが、すなわち現世のみへの信仰が、生の否定をも許容する。そして私も、宗教的体験を味わう幸運に浴したことのない一人である。
4月28日(日)
友人Hさんからメールが届く。
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皆様、
ロンドンで中東について研究中の友人より、下のメールが届きました。募金はともかく、この問題を多くの人に知ってほしいと考えてい
ます。興味があったら、サイトを覗いてみてください。そして出来るだけ多くの人に、メールを転送してもらえると嬉しいです。
H
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UNRWAの緊急アピールを日本語に訳しました。皆さんのご支援をお願いいたし
ます!
国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)
の緊急アピール
人道的危機的状況が西岸で展開しています。3月29日に始まったイスラエルの軍事
侵攻により何千人ものパレスチナ人が食料、医薬品、水、住居なしに暮らしていま す。空腹や疫病にさらされている一般住民に緊急支援を行うため、国連パレスチナ難
民救済事業機関(UNRWA) は日本の皆さんからの義捐金を募っております。 UNRWA のホームページからクレジット・カードで義捐金を支払うことができます
www.unrwa.org.
皆さんからの義捐金で以下の救済活動を行います:
緊急食料配給
毛布・テント・簡易調理セット配布
家屋の修繕のための資材配布
負傷者のためのリハビリテーション
紛争によってトラウマを負った子供たちのためのカウンセリング
被害を受けた国連の学校・医療センターの修繕
西岸・ガザでUNRWA の行っている緊急救済活動の詳細については
www.unrwa.org/emergency
をご覧ください。
この E-mail を一人でも多くの方に転送していただけたら幸いです。
ご協力ありがとうございます。
国連パレスチナ難民救済事業機関 渉外部 矢田貝久美子
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イスラエルの軍事侵攻が始まって、今日でもう1か月になるのだ。
4月23日(火)
教科書が改訂されて、小・中学生の国語の教科書から夏目漱石と森鴎外が消える一方で、決してなくならないのが『ごんぎつね』と『走れメロス』だそうである。斎藤美奈子氏の「教科書が教えない国語」(雑誌『SIGHT』vol.11
spring, 2002)では、『ごんぎつね』について「人畜無害な教科書の中で…例外的にショッキングな教材といえるだろう。なにしろこれは人が畜を撃ち殺す物語なのだ」として、実に興味あるテキスト解釈を行っているが、これに負けず劣らず『走れメロス』も、私にとってはショッキングなテキストである。
メロスは暴君ディオニソスの暴虐ぶりを人づてに聞いただけで腹を立て、暴力には暴力をと短剣をもって王の館に押し入り、うかつにも捕らわれの身となってしまう。その後の彼の活躍は周知の通りだが、最後に約束の時刻までに身代わりとなっていたセリヌンティウスのもとへとたどり着くと、その熱い友情にコロっと心を動かされた王が「仲間に入れてくれ」というと、王の非道はどこへやら、何もなかったかのようにどころか「王様万歳」の合いの手まで入って、メロスの反逆罪も問われることなく話は幕を閉じる。王の犠牲になった人々への補償はきちんと行われたのか、メロスの罪は本当に帳消しになってしまったのか、王の再度の暴虐防止策はとられたのか等々、気になることだらけである。
思うにここにあるのは、より大きな物語による、小さな物語の忘却である。そこではスポーツのように、どれだけ観客を感動させたかが問題となってしまい、どのような状況であろうと適用されるべき手続きはあっさりと無視されてしまう。しかし道徳が自分との関係性であるとするなら、それはどこまでも語りえぬものであり、であるからには人と人との関係とは、いかなる場合にも例外なく適用される法によって規定されるべきであろう。
4月22日(月)
生活形態が言葉の意味を決定するというのならば、イスラム教徒とキリスト教徒とは永遠に理解しえないということであるのか。
――その通りである。そしてそうではない。
その通りというのは、語りえない――語るべきではないという方がより適切であるように思えるが――領域について、イスラムを信じること、その生活風習を是とすること、そうしたことへの「理解」とは、決して通常言われるような理解を意味してはいない。それはむしろ尊重などと呼ばれるべきもので、違いは永遠に違いなのだという認識である。そしてそれが何か問題の解決について、絶望的であるように思えるなら、その人は人類がみな同じ考え方、同じ感じ方をすべきだという、最も絶望的なことを求める人である。
そうではない、という方のこたえに戻ろう。それは共通の土壌に立って話し合えることがら、すなわち語りうる――語り合うべき――領域においてそうなのだ。そもそもひととひととが関わり合う中で、共通して話し合うことが求められるのはこの狭い領域についてのみなのであって、人類が共通の価値観を持つべきなのもまたこの同じように狭隘な必要最小限の領域についてのみなのだ。残りの広大で最も豊かな領域に関して、われわれは常に語り合えない。それと示し、それをそのままのかたちで知ることができるだけである。そして何よりそれ以上に何を求めることがあるのだろうか。
沖縄を例にとろう。そこで語るべきことと語るべきでないこととは、どう識別されるのか。何が抑圧的に働き、何が異常なものであるのか。そして逆にそれを告発することが、新たな抑圧と以上とを招くことはないのか。
沖縄=米軍基地=日本とアメリカによる抑圧、という一連の図式を定式化することは、沖縄=美しい島=もの言わぬやさしいひとびと、という図式を作り出すのと構造的にどこが違うのだろう。
「イスラムの大義」とか、「自由民主主義」や「無限の正義」について語ることは、果たしてできるのだろうか。それはまさに根拠を必要としない恣意的な命題そのものである(すべてがそうなのだろうが)という意味で、そのことをめぐって語り合うことはできない、というだけではない。ある大義や正義が、さらに「より大きな」大義や正義によって打ち消されることがありうるという、現実に起こっている論理的思考停止性によって、そう言えるのだ。誰がそれを「より大きな」大義や正義だと決めるのか、その手続きがあまりも粗雑なのである。だからそれはバルバロイの言葉に過ぎない。誰にも理解できない。理解したい人にしか理解できない。しかしそれは理解とは違う。ほとんど信仰のようなものだ。
4月16日(火)
大学時代の同級生で、今は来年の東京都港区の区議選に出馬予定のしまだ和美さんから、掲示板に書き込みをいただく。少し前に、sawada
yamamotoさんが行っているマルチプル・プロジェクト(現在地を示す×印を書いた300個の石を世界に向けて配るというもの)が面白そうなので、石を取り寄せて彼女に送っておいたのである。
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賢者の石 しまだ和美 [URL] 2002/04/16
(火) 16:08
Kadさん、sawada yamamotoさん、こんにちわ。 先週、石を送ってくださってありがとうございました。
遅ればせながら、日記に石をいただいたこと〜沖縄に至る雑感を4月16日付で書きました(こちら)。
今も机の上にあるんですけど…ちょっと違った意味合いを持たせてしまったのでsawadaさんには異論があるかも知れませんね。
とりあえず、144番は港区北青山の、青山通りに面したオフィスの7階にあります。 では…
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日記では沖縄における米軍基地と、パレスチナにおけるイスラエル占領地とが比較される。この日に限らず、パレスチナをめぐる状況は彼女の論点としてたびたび現れるものなのだが、イスラエルによるパレスチナ自治区の占領と、中国によるチベット占拠とを比較するなど、その鋭い眼力と説得力のある文章にはたいへん感服する。
返す私のレス。
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Re: 賢者の石 門脇篤 [URL] 2002/04/16
(火) 17:04
> しまだ和美さま
日記、たいへん興味深く読みました。 21世紀を生きるわれわれにとって、戦後日本のあるべき姿を直視せずに済んだこの長く不誠実で場当たり的な、そして他国支配という意味で責任まで回避できてしまうこの冷戦というものをしっかりと捉えていかないことには、将来は暗い、それは経済的な繁栄とか、技術の革新とかいった文脈とは全くことなる文脈において、暗いと思います。
おそらくそうした危機感、焦燥感がしまださんをして、この石の上に、日記のような「読み」を強いたのであると思いました。むろん、芸術といえど人間世界における営みという意味では、最小限の政治的メッセージを常に包含してしまう部分はあるかと思いますし、それを読み込むのもわれわれの営みのあるべき姿勢のひとつでありましょう。
私はまたこれに「将来」という意味を込めて、しまださんという「これからの」政治家に、そして他の多くは私が小学生から教えていて、今は大きくなったこどもたちに少しずつ送っています。今度は千葉と東京のこどもにも送ってあげようと思っているところです。
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アメリカでのテロ事件後、沖縄の米軍基地は何に対しての防御を固めたのか。
4月5日(金)
昨日にひきつづき、パレスチナやアメリカ、アフガニスタンでの暴力について考えていく上で、それを議論する以前にとらえておかねばならないような基本的なことがらについて、今日も書いてみたいと思う。昨日は「宗教戦争」という「問題解決」が幻想に過ぎないことを指摘したが、今日は、これらの問題について問われているのが道義的責任ではない、ということを指摘したい。
これは私自身への反省の意味も込めている。なぜなら9月11日からつけているこの日記と、テロ事件に関するいくつかのエッセイの中で、私が述べていることのほとんどは、論理的な思考から生み出されたものというよりは、「〜すべき」という論証不能で個人的な倫理観から発したものに過ぎず、その当然の帰結として、何ら普遍的な価値をもつことはなく――ここで私が言う普遍というのは、われわれが少なくとも議論する際に、そこに拠って立つことのできる共通の言語という意味での普遍である――、ということは、安っぽい物語としてひとに何らかの心理的影響を与えることすらあれ、問題を解決する糸口としては全くその価値をもつことはないからである。
さて、例えばアメリカで起こったテロ事件について考えるとき、われわれはその恐るべき野蛮さを、どれほど非難してもしすぎることはないだろう。アメリカが世界帝国として君臨し、日々豪奢な生活に明け暮れ、その一方で絶対的に多数の人々が苦しみの中におかれているとしても、そしてアメリカがそれを助長しつつも自らの問題としては決してそれをとらえようとしないとしても、誰にもあのような事件を起こす「権利」はない。
同様に、アメリカにはアフガニスタンに対してあのような未曾有の内政干渉を行う「権限」はない。そもそも国家と国家は対等の関係にある。ゆえにある国家が別の国家を裁くことは不可能である。国家を超越した機関としての国際連合にすべての判断をゆだねることしかできない。
だからアメリカは自らが被ったのと同様の蛮行をアフガニスタンという第三国に対して、全く非合法的に行ったのであり、その行為は犯罪であると言える。そしてこれは道義上の問題では全くない。純粋に社会通念上の問題であり、法的な問題であって、「〜すべき」という選択的な問題ではないのだ。
パレスチナでの問題についても同様の視点をもって臨みたい。つまり、イスラエルの行っている行為は、純粋に法的・社会的に犯罪的行為であるがゆえに非難されているのであって、道義的な問題からその蛮行を停止すべき、あるいは自粛すべきだと言われているのでは決してない。われわれはイスラエルの圧倒的な武力に対するに投石でもって――かつて同じ方法で巨人ゴリアテを倒した彼らが、今ではゴリアテさながらのていであることはとんでもなく皮肉な話だが――応じるパレスチナの人々に同情を感じるから、あるいは同じようにホロコーストという悪夢を逃れてきた彼らユダヤ人に同情を感じるから、ある判断を下すのではない。それは人々の倫理観という、崇高かつ美しい本性に訴えかけ、その行動を起こすきっかけとなり、その困難な行為を持続させる力とすらなれ、物事の解決方法を生み出す基準となるべきものであってはならないのである。
自然状態において人は平等ではない。それを平等にするものが社会であり、契約であり、法律であり、政治である。決して感傷的な道義心が平等な人間を保証するのではない。それは人の心に生きる希望を抱かせ、人生の美しさについて語りはすれど、決して問題を真の意味で解決はしてくれない。問題を解決するのは共通の言語の存在を認めうること、暴力という無言の、底のない、行為そのものでしかないものでなく、言説によってわれわれの間をひとつの社会として取り持つような関係づけへの志向、そうしたものが成立するということの純粋な確信と相互理解以外にはないように私には思える。
4月4日(木)
パレスチナでの状況は最悪の事態を迎えている、と連日報じられている。事実、毎日新聞を見るのがこわいくらいの悪化ぶりである。しかしこと、この件に関して使われてきた形容「過去最悪の事態」は、これまで何度も使われてきたものであり、私にはこれが本当に最悪の事態であってくれるのか――もちろんそれは十分すぎるほどに「最悪」なのだが――という、どうにも奇妙で逆説的な気持ちにさせられるのである。
学生時代にいっしょに学び、今は政治家としてがんばっている人がいるが、先日個展の折に話した時、彼女がとても怒りをこめてこの件について語っていたのは、実にあぜんとするほどに基本的で、めまいがするほどに愚直な偏見、すなわちこの問題が、ユダヤとイスラムの何千年にもわたる歴史的な戦いだ、というわけのわからないことを本気で言っている人がすごく大勢、それも「偉い人」にもたくさんいる、ということだった。
こうした、問題を問題としないようにしようとしているとしか思えない説明、すなわち争いが起こるのは宗教の違いや民族の違いによるのである伝々という、あまりに不毛かつ非生産的でばかばかしいほどに幼稚で自分勝手で楽観的な議論をするのは、きっと何か魂胆あってのことであって、そうしたことを語る人自身そんなことを本気では信じていないだろうと思ってこの日記ではまともに取り上げた記憶がないのであるが、何かすごくそうしたわけのわからない単純さが、こうした問題を見る時のわれわれの無責任さに安住の地を提供しているように思えてきたので、簡単にふれておきたい。
宗教が違うこと、民族が違うことが人々の間の争いの原因である、という説明は一見、非常に説得的であり、力強く、心地がいい。なぜならこの仮説は、各人の良識や知性、やさしさや包容力といったものを疑ってこないからである。宗教や民族が違うと争いが起こるのが必然である以上、自分がひとに寛容でないのは仕方のないこととしてやりすごすことができてしまう。そしてこれは当事者間だけの問題ではない。そうした仮説は、争っている両者が、宗教や民族の違いによって争う以上、それは仕方のないことであり、それをとやかく言ってもむだだから解決の努力をする義務をもたないと思い込むことを可能にする。
かくしてわれわれにできることはもう何もないことになる。なぜなら、宗教が、民族が違うのだから。しかし本当にそんないかにも不完全であやしげな説明に満足していられるぐらいわれわれは鈍感なのだろうか。テレビの画像を通して伝わってくる、あの身の毛のよだつような映像を前にして。それが歴史的な事実とかいったものでなく、現に今、すぐそこで起こっていることなのに。アメリカで起こったテロに対してもったあれほどの怒りを、やりきれなさを、問題の複雑さにぶつかっていく忍耐を、そして死者に対する感傷を、われわれは一体どこに置いてきてしまったというのか。
宗教や民族が違えば争いが起こる、というのは神話に過ぎない。それは単純に、争いが起こっていない、あるいは争いが解決されている、現に存在する、あるいは存在した状況を併置することで十分証明されるだろう。私は争いが起こるのはおかしい、などと言っているのではない。宗教や民族など、仰々しい言葉にたよらずとも、われわれは日々ひとと争って生きている。そして何とかそれを乗り越えてきている。しかし、こと宗教や民族ということが遡上にのぼったとたん、われわれの前には沈黙が訪れる。それは一種の社会的な権力装置のようなものではないかと私は思う。むろん、上からの、という単線的なものではなく、様々な方向から網の目のようにこの世界を貫き、われわれを特定の安定した状態へと導こうとする圧力としての文化のコード。われわれを安心させ、自分たちとは関係のない、遠く、「難しい」問題へと押し込めていく単純で勢いに充ちた流れ。それに逆らおうとする者を、ものすごい勢いで押し流そうとするその流れは、流れに沿って進んでいく者には決して見ることも感じられることもない。
パレスチナで、現在のような問題が起こったのは、1948年のイスラエル建国をきっかけとしているのであって、たかだか半世紀の――しかしそれによって難民となった人々にとってはほとんど一生という時間の――期間にわたる問題に過ぎない。オスマン帝国治下のパレスチナにはこんな問題はなかったし、イスラム国家内部ではイスラム以外の宗教も認められていた(むろん人頭税はかかったが)。宗教や民族が本当の意味で紛争の原因となったのは、国民国家という近代ヨーロッパの理念が輸出されて以降のことに過ぎない。つまり、パレスチナ問題は極めて近代的な問題なのである(あまりに当たり前過ぎて堂々と書くのが恥ずかしいくらいであるが)。ユダヤ人の排斥と補償を同時に行おうという信じられないほどに厚顔で巧妙な政治的営為の結晶がイスラエル国家であり、その欺瞞の子どもがパレスチナ難民なのである。
宗教や民族の違いが原因などとは、どこまで冒涜的なのだろう。そしてそれを本気で信じていることのおそるべき怠慢さ。確かにそう思えばものごとは丸くおさまるのだろうが、それで済まないところが、真実の強さ、その輝きの恐ろしいほどの冴えなのだろう。アメリカでのテロ、アフガニスタンでの悲劇、そして半世紀にわたるパレスチナにおける組織的暴力とその隠蔽。もう誰もこんな怠慢と欺瞞の中に安穏と生きることは許されないように、私には思える。
4月3日(水)
アラファト議長が戦車部隊に包囲されてすでに5日、イスラエルによるパレスチナへ侵攻は拡大の一途をたどっている。シャロン首相はアメリカの支持のもと、テロリストの一掃をかかげ、アメリカがアフガニスタンで「勝利」を収めたように、武力による「解決」をめざしている。
しかしむろん、こうした動きに対するイスラエル内からの告発や自制の声、行動も見受けられる。たとえば2002年2月6日の朝日新聞朝刊には、「軍務拒否広がるイスラエル 賛同の兵士ら170人に」と題する記事が掲載されている。すでにこの件に関してはいろいろなところで取り上げられ、3月にはNHKで軍務拒否により服役している青年についてのドキュメンタリー番組も放映されており、2月にこの記事を読んだときから私もこの件について書こうと思っていたのだが、今日まで書かずじまいだった。それはなぜかと言えば、この件が、エルサレムで行われたアイヒマン裁判と密接に関連しているように思えたから、もっとよくこの裁判について知ってから、たとえばハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(1963)を読んでから書こうと思ったからだ。結局まだまだ読めそうにもなく、「あとがき」を読んだだけ。しかしもう状況があまりに切迫していて、私にできることは書くことぐらいのように思えるので、たいして書けることはないにせよ、このふたつの件について軽くふれておきたいと思う。
先にあげた朝日新聞の記事に書かれていることで、特に私の気を引いたのは、軍務拒否の根拠についてである。占領を国防と無関係として軍務を拒否している彼らは、その根拠を軍法にある「命令が違法だと判断したら、従うべきではない」という条項に求めているという。56年にアラブ人の村で村人約50人がイスラエル兵に虐殺されるという事件が起き、軍法会議が開かれた。裁定は、「命令があっても兵士は良心の声に従わねばならない」とし、兵士たちを有罪にしたという。
同様の記述が、先にあげたアーレントの『イェルサレムのアイヒマン』「あとがき」に出て来る(たぶん本文中でも取り上げられるのだろうがまだ未読)。アイヒマンはナチスドイツの高級将校として、多くのユダヤ人を虐殺する指揮をとった人物で、アルゼンチンで余生を送っているところをイスラエル当局に拉致され、その「犯罪的行為」ゆえにイスラエルの裁判にかけられ、処刑された人物だが、この裁判において法廷は、アイヒマンの行為が「明白な犯罪的な命令には従ってはならない」というドイツの刑法と軍事法律およびに先にあげた56年のアラブ村民殺戮事件での裁定を根拠に、有罪の判決を下している(らしい)。
アーレントは、この判決の根拠がとてもあやういことを指摘していく(らしい。そしてたいへんな論議を巻き起こした)のだが、とりあえずこれらふたつの事例から読み取れることは、私には明白であると思われる。すなわち、今どんな状況であり、自分がどれほど下級の兵隊に過ぎなくとも、「明白に犯罪的な命令には従ってはならない」という条項は、後々まで自らの行為への責任として問われつづけること――道徳的なものとしてではなく、まさに法的な強制力をもったものとして――、そしてそれが今まさにパレスチナで起こっている状況である、ということである。
いつかこの危機的状況が収まったとき、かつてアイヒマンが拉致され、裁判にかけられたのと同様にして、裁かれる「べき」人の数はどれほどにのぼることになるのか。もちろん、ブッシュ氏がアフガニスタンで行い、これからも別の地域で行おうとしている行為の正当性を裁判で争おうとすることがばかげているのと同様に、これらの判断は、ただの悪夢、「歴史的事実」として扱われ、固定されていくのであろうけれど。
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