テロリズム日記 6

(2001年10月15日〜10月20日)

"the stone" Atsushi Kadowaki

 

10月20日(土)

 土曜の夜は、NHKで放映しているアメリカのコメディ『ダーマとグレッグ』を見る。これが私の見るほとんど唯一のテレビ番組だ。ユーモアにあふれたこの番組を見るようになって1年くらいたつだろうか。ふと昨日の朝日新聞朝刊の『天声人語』に書かれていた「ユーモアの危機」について思い出す。今回のテロ事件で、ミスター・ビーンことローワン・アトキンソン氏やユーモアが売りもののコラムニスト・バックウォルド氏などから、笑いや皮肉といった要素が制度的、社会的に規制されていくとの懸念が表明されているという。
 笑いや皮肉が規制されることは表現の自由にかかわる問題であるが、そうした何やら大上段の抽象的な問題提起とは別に、それがひととひととを結びつける、いわば人間の社会的政治的活動が示す多様性のひとつの面を形作るものであり、少し大げさかもしれないが、今回の事件にも関わる問題群の解決へのひとつの糸口を提示するものではないかと思う。
 たとえば、今回のテロ事件で飛行機がビルに激突するシーンがあまりにハリウッドのアクション映画風であったことから、その(表面的な華々しさとは裏腹の)内容的な貧困について多くの批評を目にしたものだ。あまりに単純化された勧善懲悪ストーリーや強いアメリカの誇示、白人ヒーローとアラブ系テロリスト(シュワルツネガー主演の『トゥルー・ライズ』では善玉グループにもアラブ系俳優を含めるという苦肉の策も)。彼らの真のねらいは常に金めあてであって、信条によるものでないこと。
 しかし観客の見たがる映画がそうしたばかばかしいほどに類似したご都合主義の産物であるのに対し、NHKで取り上げているアメリカ・ドラマの方は、その多民族国家としての現実にある程度まじめに向き合っていると言える。こうしたメディアは常に現実を後追いするものであり、今のところアラブ系のレギュラー出演者にはお目にかからないが、以前よく見ていた『ビバリー・ヒルズ○○白書シリーズ』ではユダヤ人や黒人、ヒスパニックといった「問題」とがテーマとして取り上げられることが多々あったし、『ER』にせよ『アリー・マイ・ラブ』にせよ、主人公はすべて白人なのは仕方ない(?)として、脇を固めるレギュラー出演者としての非白人が、エピソードを投げかける重要な要素とされているように思う。
 ここで話題にしようとしている『ダーマとグレッグ』は、民族的な多様性は少ないものの、主人公ダーマを筆頭に、極端なほどに登場人物それぞれの価値観は多様性に富み、それがひとつのユーモアのキーとなっている。スーパー・リッチで社交界に出入りするモンゴメリー家の一人息子グレッグと、ヒッピーの両親に育てられた自由奔放なブロンド娘ダーマが一目ぼれで結婚する、というということろから始まったと言えば、そのあたりの雰囲気はわかってもらえるだろう。
 毎回、実に強烈なドタバタ騒動が繰り広げられ、面白いこともあれば不発の回もあり、そこから何かを解釈するなどというのは愚の骨頂ではあるわけだが、あえてそれを試みるならば、そうしたエピソードを通底しているものは、異文化の融合への確かな足取りであると言える。それぞれ強烈な個性をもつ、ほとんど相容れないようなふたつの家庭が、細かな日常のどたばたを通してかみあっていく。むろんコメディである以上、その食い違いがおかしみをかもし出しているのであって、みんなが相手を尊重しあうお利口さんではおもしろくもなんともない。それぞれが自分の個性を主張し合っていくちぐはぐさに笑いを覚えながら、しかし徐々に相手への理解へと染み込んでいく。ユーモアに裏打ちされた、一様でも一般的でもないやり方で。おそらくそうした安定感が、この番組を単なる「お笑い」から救っているのだろう。そしてそうした救いこそが、ユーモアの特徴であり、特権であるのだ。
 私はまじめな議論が対立しか生まないなどと言うつもりはない。逆にユーモアさえあれば対立がもっと緩和されるはずだなどという脳天気なことを言うつもりももちろんない。しかし離れて見ればわかることだが、われわれの真剣さとは時としてコメディそのものである。われわれの言う絶望の底というものにはいつもしっかり穴が開いていて、あちら側からはユーモアの目がのぞいているものなのだ。それを忘れないようにしたい。これからは少しそうした発言も取り入れていこうと思う。例えば橋本元総理が、今回のテロ事件直後に官庁などの護衛には自衛隊を使うという案が出ているを聞いて、「国民を守るのはたよりない警察でいいってことかい」と皮肉ったという話。何とも川柳な発想ではないか。

 

10月19日(金)

 昨日の観光相暗殺を受け、イスラエルはさっそくラマラとジェニンへの侵攻を開始した。この「対テロ戦争」で11歳の少女を含む3人が死亡。イスラエルは暗殺犯の即時引き渡しを求めているが、パレスチナ側ではこれには応じられないとしている。
 まるでどこかで起こった事件を、規模の小さなエピソードに置き換えたような話だが、アメリカ政府はイスラエルに「自制」を求めているという。むろん「イスラエルには「対テロ戦争」を進めている米国が、なぜ、自分たちの「戦争」を抑えるのかという不満が強い」(朝日新聞朝刊2001年10月19日)。
 おそらくイスラエルによる「対テロ戦争」はつづくのだろう。そして今まで通り、犠牲者が出つづけるのだ。これまでだってそうだった。いったい誰が止められるというのか。世界の超大国にならう国を。

 そしてテロ支援国家イランからの優れた論評を読む。今朝の朝日新聞に寄稿されたイラン副大統領モハマド・アリ・アブダビ氏によるものだが、政治家がこれほど現実的で、しかも筋の通ったことが書けるということに不謹慎ながら喜びに満ちた驚きをおぼえる。私の不勉強が大きいとは思うが、テロ事件以来、少なくとも政治家諸氏によるこんなに明晰かつ優れた指摘を読んだおぼえがない(全文をこちらに引用しておく)。
 もっともなテロ糾弾的一般論をひととおり述べた後、結局は自陣営の利害へと話の中心を移して行くおきまりの皮相な詭弁にはうんざりさせられていたので、批判すべきところを批判し、脱自陣営主義とでもいうべき知の理想的な地点が示されていて、とても新鮮ですがすがしい。しかも繰り返しになるが、実際に政局を運営している副大統領という地位にいながらこうした澄んだ視点を持てるというのが、なんとも驚異的である。国連でのハタミ・イラン大統領の演説が思い起こされる。イスラム原理主義革命を経、そこからの現実路線を模索してきた同国ならではの経験と知的努力のたまものであろうか。
 氏は今回のテロ事件を契機として、テロ根絶の機会が示されているにもかかわらず、それが生かされていないという。まずそれが、米国が「報復と汚名の返上に力を注いでいる」ためであるという。この鋭い指摘に反論できる者がいるだろうか。そしてまた、テロ対策に見られる「ダブルスタンダード」もこの機会を逸する原因であるとする。イスラエルによる国家的テロ行為を米国が見逃してきたことが想起される。さらに、イスラムがテロの温床とされ、テロリストと同一視されてきた原因を作ったのは、冷戦時代のソ連と対決するためにイスラム過激派を煽動した米国の政策に責任の一端がり、しかも今日にいたるまでこれを野放しにしてきたという。最後に、今回のアフガニスタン攻撃が、かえってビンラディン氏を英雄に祭り上げる結果を招いているという憂慮を示す。
 何とも説得力のある理路整然とした説明である。しかもすべてが明白な根拠の上に立っており、アメリカが自由と民主主義の名のもとに、どれだけ世界に不自由と反民主主義を育ててきたかがわかる。しかも氏はそれをうらみつらみで言っているのではない。この文章からはそのアメリカの真摯な再考を求める期待のようなものがうかがえる。敵対する陣営としての非難ではなく、ともに世界を前へと進めていく盟友への仮借なき批判のように私には受け取れる。

 こうした発展的な批判をどこまで自分たち共通の問題への解決の糸口として受け止めることができるかが、今後の世界がどこへ向かうかの重要な鍵となってくると思う。対決ではない。対話なのだ。非難ではなく、批判なのだ。耳には痛く、ときに聞くのが耐えがたくとも、どんな小さな声にも耳を傾けていくべき、小さな努力の時代。どんな人も排除されない、気の遠くなるような対話と努力の時代。戦闘機やミサイルを使った明快でわかりやすく、うむを言わさぬ単純ではもう解けない。もうだれもだませない。それはこの努力への不安や怠慢に過ぎない。われわれはもうここまで来たのだ。われわれは次の一歩が見たいのだ。少なくとも私は見たい。政治家が泡を飛ばして世界のことを世界のこととして語る姿を。世界を、ひとりひとりの姿かたちから語る姿を。批判すべきところを仮借なく語ることが、だれかの経済的生活を圧迫したり、だれかの生命をおびやかすことを意味しない。貧困のうちにある者のことを常に気にかけ、これを解決していくことの方を、すでに経済的な不安を感じるいわれのない者のよりいっそうの繁栄よりも先にするという当たり前の正義が行われる。つまりこれはわれわれの問題なのだから。そして個人の枠を超えた高度に政治的な活動が、より豊かな知性を求められるのはそうした基盤に立った上でのことなのだから。もうだれひとりとしてひとごとのことなどありえないところまで来てしまったのだから。そしてその先を見たいと思わないとはどういうことなのか、それが問われてしかるべき世界なのだから。

 

"the words" Atsushi Kadowaki

10月18日(木)

 イスラエルのゼービ観光相がパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に暗殺される。シャロン首相は「新しい時代が始まった。昨日までとは違う」と語り、現職の閣僚が暗殺されたことの大きなショックを受けたこと、今後のパレスチナ政策がアメリカの姿勢を追い風に、より強硬なものになるであろうことを示唆した。
 このニュースを報じる今朝の朝日新聞朝刊や昨夜のロイター通信では、この「テロ事件」の現在性のみが問題となっており、それを少しでもこれまでの経緯とつなげて見る見方を提示していない。やっと朝日新聞が、今回のテロが8月下旬のイスラエル軍によるアブアリ・ムスタファ議長暗殺への「報復」(記事にも括弧がついている)であること、ゼービ氏が民族主義強硬派であり、イスラエル軍のヘブロン撤退に反発して、暗殺された日に辞任する予定であったことが記されているが、この一見客観的な記事は、このテロ行為についての正しい情報を伝えているとは思えない。
 今回のアメリカでのテロ事件に先んじること数週間前、イスラエルはPFLPのムスタファ議長を暗殺した。これはイスラエルが国をあげて行っていた「暗殺作戦」の一環であり、各国が憂慮を表明していた明白な「国家テロ行為」だった。これに対する今回の「報復」も、明白なテロ行為であり、「暴力の連鎖」を生む、「文明の衝突」として断罪されねばならないと思う。そしてもちろんアメリカのアフガニスタン攻撃についても同様のことが言える。
 しかしアメリカによる報復行為がこうしたパレスチナ人による報復行為と何か違う点をもつとしたら、それはアメリカが正義を背景にしているからでもないし(パレスチナ人にも正義は許されてしかるべきだ)、自衛権行使の権利にあるのでもない(パレスチナ人にも自衛権は認められるべきだ)。それははっきり言うなら、アメリカが圧倒的な軍事力でその報復行為を行っているという点である。おそらくアメリカ政府の判断では、圧倒的な報復でなら「暴力の連鎖」を断ち切ることができるのだろう。イスラエルのやり方では手ぬるいというわけだ。
 さて、ゼービ氏の暗殺が「報復」であるとの常識的な視点に立てば、以上のような状況把握がなされてしかるべきであるが、さらに踏み込んでもっとうがった見方をしてみよう。ゼービ氏はただの閣僚ではなかった。PLOの中でPFLPが強硬派であったように、ゼービ氏もイスラエルの中では強硬派である。そのために今回閣僚を辞任しようとまでしていた。この氏をなきものにすれば、和平は先へ進むという、ばかばかしいほどに単純な解釈を期待する意図、氏の暗殺が和平を前進させようとした行為と評価されることで何らかの罪を回避できるとするおめでたい意図があったとしたらどうだろう。決してわれわれはそうした詭弁に耳をかすことはないだろう。あまりにも見えすいたそのばかばかしさ加減に、人の命を何だと思っているのかとつめよるだろう。そしてここでもそれはアメリカの行為へとつながっていく。アフガニスタンへの空爆が世界の平和を前進させると本気で思っているとしたら、そんなばかげた話に真剣に耳を傾ける人がいるのだろうか。それが世界に平和をもたらすための苦渋の努力として、数々の誤爆や政治的な意図を覆い隠すことができると考えているとしたら、その人にわれわれはどんな言葉を浴びせるべきなのだろう。
 空爆は今日もつづいている。常識的に考えて、これほどのミスがつづいたなら、どんな計画も頓挫しそうなほどの誤爆による被害が出ている。しかしだれにも止められない。だれもその責任をとることもない。炭そ菌によるテロ行為が、さらにこの野蛮行為に存在理由を与えている。おそらくだれもやがて行われるイスラエルの「報復」を止めることはできないだろう。それがいかに和平を後退させるものであったとしても、シャロン氏が言ったように、「昨日までとは違う」のだ。政治の貧困と力への意志の中、その圧倒的な軍事力にたよることこそが、平和を達成させる唯一の手段になりさがってしまったのだ。

 

10月17日(水)

 「横浜トリエンナーレ2001」について紹介している今朝の朝日新聞の記事を読む。私は実際に観たわけでもないのだが、この記事やNHK「新日曜美術館」でもとりあげられていたオノ・ヨーコ氏の作品について、どうにも気になっていたことがある。それは「平和」というメッセージを打ち出すために、貨物車に銃弾を撃ち込むという手法をとったことについてだった。それに疑問を感じるのは素朴に過ぎるなと思いながらも、どういう意図が隠されているのか、なかなか読み解くことができなかった。おそらくこれは、「平和のための戦い」という言葉がもつ矛盾を指摘するだけの論法によっては汲み取ることのできない、非常に深いメッセージになっているのだと思う。現に氏は今回のテロ事件を受けて、トリエンナーレへの出席を断念、アメリカでの反戦キャンペーンに奔走しているそうだ。平和を実現するための暴力というものが最低限の水準では必要という諦観に立って、それをどこまで平和理念に近づけられるかという不断の努力をしていく、そうしたメッセージこそがこの貨物車に読み取られねばならないだろう。むろん出て来る結論がそうそう特殊なものであることはないだろう。おそらく重要なのはそうした場所に立って語るということであり、とりあえず戦争は反対というのではなく、武力を行使するにせよどこまで精密な検討を重ねていったのかという点がもっともっと突き詰めてなされるべきなのだ。今回のアフガニスタンへの攻撃が、自衛権の拡大解釈に過ぎないというのは明白であり、その作戦行動が実にずさんなものであることは、湾岸戦争以来飛躍的な進歩をとげ、被害は最小限ですむという当初の説明が、メディアを通して入ってくる甚大な被害を報じるニュースとこれだけ食い違っているというのを見れば一目瞭然だ。開戦前後にアメリカ政府が行った説明と、その後おそらく世界に住む大方の住民が受け取っている印象との間にはものすごく大きなずれがあると思う。もし今行われている武力行使が正当であるというのなら、民間人も含めた今現在の過剰な程の被害が本当に必要なものであるということを、全員に納得させなくてはならない。ラディン氏が(もし引き出されるとして)法廷で裁かれた時には、同時にこの作戦に関わった責任者全員が、同じく法廷でその正当性を証明できなくてはならない。

 今朝の朝日新聞朝刊によると、とうとうインドネシアではメガワティ大統領が空爆を批判することに。よりイスラーム的であることがひとつの政治的価値をもつ同国の、実にイスラーム的伝統とも言える動きに思える。しかしウラマー評議会からは「行動が大事だ」という、さらなる圧力がかかっているそうだ。

 「アメリカ人の集団的無意識のうちに燃えさかっているのは、度し難い罪人に対しては仮借なき懲罰が下されるべきだという清教徒的な情熱である......このほとんど宗教的といえる憤怒によって支えられた「天誅を下す」という態度は、およそ国際政治の場にはふさわしからぬものである。しかし、合衆国にとってはそれこそが世界に向けての行動様式を決定する中心教義なのである。また、合衆国にとって懲罰とは黙示録に謡われるような破壊的なものでなければならない。ベトナム戦争当時、ある有力な軍司令官は、爆撃によって敵を石器時代に戻してやるのが目標なのだと公言していた。91年の湾岸戦争においても同様の意見が有力だった。罪人は極限の惨たらしさをもって終末を迎える定めだとされ、その際に彼らがどんな苦しみを味わおうがお構いなしなのである。ニュースを漠然と見ているアメリカ人の多くが現在まず念頭においているのはイラクに対する“正当な”処罰という考えであろう。ここから、イラクとの対決に備えてペルシャ湾岸に軍事力が結集されるという浮かれ騒ぎが展開していくのである」(エドワード・サイード『地獄の黙示 98年11月の米・英によるイラク攻撃について中野真紀子訳)
 途中まで読んでこれが今回のアフガニスタンへの攻撃についての文章でないことに気づいてびっくりされた方もいることだろう。今回のテロ事件直後には、アフガニスタンを「石器時代」へ戻せという声が上がったのは記憶に新しい。
 サイードの文章はあまりに鋭く、的を得ているのでこれ以上何を言う必要もない。これはおそらく彼のほとんどの著作についてあてはまることだろう。パレスチナ人として生まれ、イスラム的環境の中で育ち、長じて西欧文明の中に身を置き、アメリカ市民としてイスラム、アメリカ双方に立った視点から、いずれの側にも組することなく批判すべきところは批判していく。その生きた良心ともいうべき存在は、それだけで驚嘆に値するものだが、文学、音楽、政治とクロスオーバーに活動していくその旺盛な仕事ぶりは、同時代に生きていることをどれだけ幸運に感じても感じすぎることはないように思わせる。ましてやこのインターネット時代。彼のリアルタイムの発言が手に入るという事実に私は本当に大きな喜びを感じる。また、ここで引用させていただいた訳文は、中野真紀子氏のサイトからのものであり、氏はご自分のサイトにサイードをはじめチョムスキーなど、同時代に生きる真の意味での行動する知識人の発言を紹介してくれる。ここからの引用のほか、サイードの発言、文章について、毎日少しずつ、私なりに紹介していきたい。

 

10月16日(火)

 教えている高校生が学校で使っているというプリントを見せてもらった。イスラム世界に関する片倉もとこ氏の文章の一部で、イスラムが人間は弱いものという理解に立っているということ、そして社会的に弱い立場の者が強い立場の者に対して助けを求めることが、情けどころか当然の権利として受け取られることについて紹介されていた。
 私が大学生のときにも、教養課程の間はずっとそんな話を聞かされたものだ。一夜の宿を請う者は必ず受け入れられるというイスラムのホスピタリティ、「コーランか剣か」という誤解と宗教的寛容、常に民衆の同意を必要とする支配者たち、多様性。
こうした定式化された異文化紹介はやや古くさく、単純に過ぎるという批判もあるとは思うが、しかし日本人が礼儀やメンツを重んじるという紹介と同じく、確かにないとは言えない一般的傾向であると思う。しかしその一方、そうした定式化した枠の中へ、他者を埋め込み、従属させる装置としても利用されてきた歴史を顧みるに、イントロダクションとしての効用こそあれ、それを受容しつづけることには疑問を感ぜずにはいられない。また、そうでなくとも私は、基本的に人間は同じ構造を持っているという、認識というよりも直感に近いものをもっていて、いつも何かを見るときには差異よりも類似に目がいってしまい、何かその手の定式化が陳腐なものに見えてしまう。
 そこで今日はアフガニスタンに深く関わったおふたりの言葉を引用してみようと思う。いずれも住民を研究対象ととらえた方ではなく、かといって援助すべき脱落者として接した方でもない。それだけにそのとらえ方は、「定式化」という枠を超えて、自らの側に相手を、あるいは相手の側に自らを限りなく引き寄せるものであり、表面上は異文化を表現したものでありながら、やはりその深いところでは限りなく同じものの上に立つ存在としての他者理解になっているように思う。ただ注意したいのは、それがこのおふたりの感じとった、つまりこのおふたりぬきにしては成り立たないアフガニスタン理解であって、一般化し、その中に数ある「現実の」アフガニスタンを閉じ込めてしまってはならないということだろう。

 朝日新聞10月12日朝刊に掲載された国連難民高等弁務官事務所カブール事務所長山本芳幸氏の談。
 「礼儀、気配り、目上の人への敬意。「アフガン人は驚くほど日本人に似ていますよ」帰還難民の泥づくりの家をよく視察した。日々の食糧に事欠く暮らしぶりなのに、こちらの生活や健康を気に掛け尋ねてくる。本題の前にそんなやりとりが続く。「幼いころ故郷の町で、大人たちがおじぎを繰り返しながらあいさつしていた様子と似ていて、懐かしく感じました」」

 ペシャワール会の中村哲氏へのインタビュー(例によって池澤夏樹氏のメール・コラムで取り上げられたもの)。
 (アフガニスタンに住む人々の楽しみについて聞かれて) 「客を泊めて四方山話を聞くこと。旅人は必ずもてな す。ドラムを叩いて歌をうたい、即興詩のようなこともやります。読み書きはできなくとも、土地の人はみな詩人です。子どもたちはそこらのものをおもちゃにして集団で遊びます」
 (どのような考え方の人たちか) 「うーん、ヤクザのメンタリティに似ていますね。信用したらとことん信用する。『あんたのためなら死んで もいい』といいますね。逃げてきたものは決して売り渡しません」(
「みすず」9月号) 
 

 

10月15日(月)

 アフガニスタンへの空爆が2週間目に入る。金曜を除き毎日続いているが、最初の2日ほどは空爆のたびにアルジャズィーラ・テレビの中継が流れたものの、今では空爆が「当たり前」になってしまったので、空爆されている時間にもお笑い番組が流され、スポーツ番組が流され、いったい現地がどうなっているのかニュースの時間までわからない。結局いつもあの真っ暗な闇の中に悲しいほどに散発的な対空砲の光の映像、最近は少し炎上する街の映像なのだから、昨日の映像を流してもわからないほどなのだ。それほどに映像の語る言語は乏しい。まるでこのままいくとアフガニスタンが空爆を受けるのはなかば「当然」のことにでもなりそうな勢いである。

 作家の池澤夏樹氏がテロ事件について書いているメール・コラムが毎日届く。11号から読んでいるが、短いながらもほとんどが鋭い視点をもった、内容の濃いコラムになっている。それというのも、氏が書いている文章が、今回のテロをきっかけにした一夜づけの知識によるものでなく、日頃の知的鍛錬の中で練り上げられた姿勢を、今回のテロ事件という現象を前に再確認していくものになっているからであろう。
 この日記の中でもそれらについて取り上げていきたいと思っていたのだが、日々の一夜づけ的知識収集に忙しい私はなかなか思うにまかせず、いろいろなものが先送りになっているが(日常生活もほとんど破綻状態)、今日来たコラム(「新世紀へようこそ 021 「小泉氏の話法」)にふと感じたことを書いてしまおうと思う。
 このコラムはいつもよりもやや長めの文章からなり、小泉首相のおそらくは国会答弁を念頭においた話法を分析している。氏の指摘は小泉首相の話法が「だれにもわかりやすい、国民みんなの心に響く、情緒的な、一見 反論しにくい、聞く者を興奮に誘う話法」であり、これがファシズムの常套手段であると述べることによって、明言はしないものの、首相とファシズムとの親和性を示唆しようとしている。
 私が少し違和感をもって読んだのはしかし、次の箇所である。

 「「5 日本だけが何もしないではいられない」──ここが小泉氏の論法のもっとも大きな飛躍です。自衛隊を出す以外の方法は最初から視野に入っていない。おまえも来るかとボスに言われていそいそと駆け寄る、国としての主体性のない、尻馬に乗るだけの情けない応対ではないでしょうか」

 こうした首相の強引ともいえるアメリカへの協調姿勢について、アメリカの歓心を買うための行為、アメリカのご機嫌取りという指摘はいたるところで散見されるものだが、私が見る限り、この指摘は当たっていない。
 首相がワシントンでブッシュ大統領と会談した後の記者会見の様子や、国会答弁で大橋巨泉氏代議士に「ショウ・ザ・フラッグ」と言われて揺れている政府の姿勢はいかなるものかという質問への明快な回答「私もみんなで何を言ってるんだと思っていた。何を言われようと日本として主体的に行動する」からもわかるように、彼は本気でやりたがっている。アメリカに言われたからやっているのではなく、本心からアメリカを支援し、日本を世界で責任ある地位につかせようとしているのである。彼の口から出る「日本の主体性」というのはそういうことであって、逆にあのような単刀直入な人にひとの顔色をうかがうようなまねは格好悪くて決してできないと思う。もし無理やり意志に反して何かをしなくてはならなくなったら、おそらくそれこそがんばって抵抗する人ではないかと思う。
 そしてだからこそやっかいなのである。アメリカへの追従でも何でもないのだから、そういう非難をされても全然気にならない。むしろそうでないことを示すためにどんどん先へ進もうとするだろう。憲法解釈を変えたらどうかと言われても、靖国参拝でわかるように、彼は本気で「二度と戦争を起こさないために」靖国に参拝するのであり(今日も韓国訪問の折にそんなわけのわからないことを本気で力説したそうだが)、集団的自衛権を禁じる憲法解釈を堅持するのである。そしてまた構造改革は本気で必要だと思うし、それには「痛み」が必要だから誰に気兼ねすることなくそれを公言するのである。そうした彼の単純明快な、言わば一人よがりな政治姿勢は、本人が自分なりの信念をもってやっていることに加え、その方向性自体よりもむしろその姿勢の潔さが国民的人気のもとになっているだけに批判しにくい。信念をもってがんばっている人を応援したい気持ちはわかるが、それは一般の人に対して持つべきものであって、政治家といういわば特殊能力を要求される職業においては、新たな隠蔽の道具に、しかも本人にすら自覚されない高度に洗練された隠蔽装置になりかねない。私自身、小泉氏の政治姿勢や生き方については首相になる前から共感するところが大きかったし、なにより実に面白い人だと思う。そうした意味で全面否定するつもりは全くないが、常に批判的な緊張感をもってあたりたいものだ。
 

今日のテロリズム日記
テロリズム日記 7 (10/22〜10/25
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