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2月5日(火)曇り
ハイデガー研究で活躍中の、木田元氏の編による、『思想読本3 ハイデガー』(2001、作品社)を読んでいて、東浩紀氏という71年生まれの「哲学研究者」によるエッセイ「私とハイデガー」に目をとめる。氏は90年代に入って哲学を学び始めた自分は、日本の80年代を席巻した「フランス現代思想」からこの道に入ったため、前世代から見ればたいへんな迂回をしてハイデガーにたどりついたように見えるだろう(なぜなら「フランス現代思想」とはとりもなおさずハイデガーを源とし、そこからの脱出を図る試みにほかならないから)ということを書いている。しかし自分はデリダ研究を通してハイデガーを見たために、ハイデガーだけを見ていては見落としてしまったであろう点に注目できたという幸運にもめぐまれたという。少し長くなるが、引用してみる。
「デリダは癖の強い解釈を行うので有名だが、ときに驚くほど鋭い指摘を行うことがある。そのなかでもっとも私の印象に残っているのは、デリダが1987年に行ったある講演で、ハイデガーの動物観念について述べた短いコメントだ。そこで問題になっているのはあまり主要とはいえないテクストであり、自分ひとりでハイデガーを読んでいたら決して問題意識をもたなかっただろう。しかし、いちど指摘されてみればとても重要な箇所だ。
問題の箇所はハイデガーが1929年から30年の冬楽器に行った講義の一節である。彼はそこで「世界が貧しい」という奇妙な言葉を用いた。それは「世界をもたない」と「世界形成的」という二つの言葉に対立し、石は世界をもたず、動物は世界が貧しく、人間は世界形成的なのだ、という一種のヒエラルキーを構成している。しかしデリダによれば、この発想はハイデガー哲学の根本と衝突している。動物の世界が「貧しい」と言うのだとすれば、その立場はもはや、人間と動物と無生物とをひとつのスケールのなかで捉える、生物学的で人間主義的な経験諸学とほとんど変わらない。しかしハイデガーは他方で、現存在(人間)についての自らの学を、それら存在者に関する知識から徹底的に切断することを主張していた。ハイデガーはこの矛盾を放置している。そしてデリダは、まさにこの点こそ、きわめて抽象的で構造的だったハイデガー哲学がファシズムと親和性をもってしまった、言い換えれば、狭量な人間中心主義からもっとも遠かったはずの思想がいつもまにか最悪の民族中心主義へと転化してしまった、その不徹底性の原因が窺えると主張するのだ。
私はこの指摘が長いあいだ気にかかっている。ハイデガーの哲学はとても力強く、かつ繊細だが、しかし動物の存在論的地位がうまく定められない。言い換えれば、人間と世界の関係は扱えるのだが、その人間が世界から生まれてくる連続的な構造は扱えない。だからこそその思想は、人間を動物として扱う野蛮さに対して、恐ろしく脆弱で、かつ無防備だったのだ。ここにはおそらく、やはり同じように人間を動物として扱うし、また扱わざるをえない脳科学や生物情報科学の進展を前にして、旧来の人文科学がいま直面している困難のひとつの雛型が現れている。その困難の正体をより精密に見極めるためにも、ハイデガーは、たとえ反面教師としてではあれ、これからもまだまだ読まれ続ける必要があるだろう。動物の現存在分析なるものが考えられるのか、ひとことで言ってしまえば、そこにこそ21世紀の哲学の運命は賭けられているように私には思われる」(前掲書p67-68)
私にはあまりに重くて難しい内容なので、引用だけしてそのうちわかるようになったら、考えよう(逆か)。
1月20日(日)曇り
日高敏隆氏の『動物にとって社会とはなにか』(講談社学術文庫、1977)を手に取る。私はおもしろそうな本を見るとすぐ買ってしまい、ほとんど読まずに何年もたってから読むというものが少なくない。例えばこの本であるが、一昨年あたりに買って、数ページ読んでずっと放っておいたものだ。先日うちのバカ猫がなぜか本を掘っくりかえしているので手に取ってみるとこの本だったわけである。
氏は「環境世界理論」のヤーコプ・フォン・ユクスキュルや『ソロモンの指輪』のコンラート・ローレンツの著書の訳者であり、動物行動学の研究者である。ユースキュルはマックス・シェーラーに、そしてハイデガーに影響を与え、それぞれ「世界開在性」、「世界内存在」という理論を生み出したという話を読んだばかりだったし、氏の本の中でもかなり引用されているローレンツもユクスキュルの影響を受けたユクスキュルの次の世代の生物学者であり、その著書『攻撃 悪の自然誌』(日高氏が共訳、1963)は、はたと気づいて探してみると、やっぱりダンボールの中にしまいこまれていた。これはかれこれ10年くらい放置されているだろうか。以前に読んだ『ソロモンの指輪』が記憶に残っていて、本屋ですぐさま買ったものだった。
前置きが長くなってしまったが、ところで解説を書いている生松敬三氏は「いかにも日高さんらしい言い回し」として本文から特に次の文章を解説の中で引用している。
「ぼくには、まだわからないことがたくさんある。それをまた、これからいろいろとさぐってみるのがたのしみだが、きっとこんな質問がでるだろう。つまり、そんなことをしらべて何の役に立つのか、ということだ。それには、ぼくはこう答える。ぼくはアゲハチョウという虫の世界を知りたいのだ、と。アゲハチョウはただの虫である。けれど、何十万年もの昔から、今のように毎年毎年あらわれてきて、生きては死んでいった。そのアゲハチョウたちの見ている世界、感じている世界は、もちろんぼくたちの世界とはまるでちがっている。でも、彼らに彼らなりの世界がないとは思われない。それはどんなものだろう。もしそれをすこしでも知ることができたら、ぼくらの自然というものの理解が、すこしは深まるかもしれないし、それによって、ぼくら自身のことが、もうすこしわかってくるかもしれない。現代はとくにそういうことが大切であるように、ぼくには思われるのだ」(前掲書p177−178)
前置き同様、引用もずいぶん長くなってしまったが、なかなかいい文章ではないか。さすが、世界の知性をいち早く見つけ、日本に紹介している人だけある。
しかし、次のような文章に出会うとき、私は少しこの感銘が減ずるのを禁じえない。それは同じく本文からのこのような文章である。
「動物は植物のように無機物だけで自分のからだを作って生きてゆくことができない。したがって、何らかの形で他の生物の作った有機物を食べなければならない。枯れた植物の腐ったものや、他の動物のフンや死体を食うような平和的生活に適応して生じてきた一部の動物(ヤスデやシデムシやマグソコガネなど)はべつとして、他の多くの動物は、たとえおとなしい草食動物といえども、とにかく生きている生物をかじったり、ときには殺して食わねばならないという「原罪」を負っている。この原罪を議論してみてもはじまらない。もしこのような行為を否定するのなら、ほとんどあらゆる動物の存在そのものが悪となってしまう。その点では、美容や健康上の理由からでなく、道徳的理由からする菜食主義者は、問題をつきつめることなく、中途半端で妥協していることになる」(前掲書p87)
この「中途半端」だから道徳的理由、簡単に言うと「かわいそうだから」動物を食べないようにしようという菜食主義は「意味がない」とか、「妥協している」といった指摘、菜食主義に異議を申し立てる人が勝ち誇ったように使う理由の9割がたがこれである。「結局他の生物を食べているのだから」「中途半端だから」。買い物依存症の作家中村うさぎ氏もどこかで同じことを書いていた。あれは確か毛皮のコートは動物愛護の観点からしてよくないのではないか、という問いに対し、動物愛護は「中途半端だから意味がない」と書いていたように思う。
しかし本当に「中途半端」でないこと、すなわち完全なものなど、本当にこの世に存在するのだろうか。神の国やイデアの園なら確かにそういったものがごまんとあるのだろうが、点ひとつとっても、完全な点(面積0)などないわけである。そして何より、人間は不完全で、完全な調和や論理的一貫性をもったものだけに打ち込むものではなく、一見無意味とも思えるものにも情熱を燃やし、そこにこそ生きる意味を見出すといったことがしばしば「人間らしさ」とさえ言われ、たたえられる中で(たとえば42.195kmという神経質なまでに細かい走行距離を設定され、身体にもよくなさそうなこの距離を殺人的な速さでただ走りつづけるマラソン等)、なぜ菜食主義だけがその例外とされるのか。例えば、私は生松氏が先に引いた日高氏の文章。これを次のように書き換えて、「道徳的理由からする菜食主義者は、問題をつきつめることなく、中途半端で妥協していることになる」という氏の指摘に対する反論としてみたい(太字が私が変えた部分)。
「ぼくには、まだわからないことがたくさんある(たとえば、なぜ人間は動物を必要以上に食べるのか等)。それをまた、これからいろいろとさぐってみるのがたのしみだが、きっとこんな質問がでるだろう。つまり、そんなことをしらべて何の役に立つのか、ということだ。それには、ぼくはこう答える。ぼくは食べられる動物たちの世界を知りたいのだ、と。食べられる動物たちはただの家畜や野生動物である。けれど、何十万年もの昔から、今のように毎年毎年あらわれてきて、生きては死んでいった。その食べられる動物たちの見ている世界、感じている世界は、もちろんぼくたちの世界とはまるでちがっている。でも、彼らに彼らなりの世界がないとは思われない。それはどんなものだろう。もしそれをすこしでも知ることができたら、ぼくらの自然というものの理解が、すこしは深まるかもしれないし、それによって、ぼくら自身のことが、もうすこしわかってくるかもしれない。現代はとくにそういうことが大切であるように、ぼくには思われるのだ」
1月11日(金)曇り
昨日の朝日新聞朝刊「くらし」欄には、「国交省も知らない「タクシー」がある ペット運び病院、旅行…マイカー代わり幅広く」という記事が掲載されている。昨年末に我が家に車がやって来たが、それまではいっしょに住んでいる動物がけがをしたり、道ばたでけがをした動物を見つけたりすると、徒歩やタクシーで動物病院へ行かねばならず、患者にせよわれわれにせよとてもたいへんな思いであった。
おそらくそんな思いをしている人は全国にはずいぶんいるであろう。動物専用タクシー・サービスを積極的に評価するこの記事は、そうしたことを裏付けるものであった。
ところで私がここでとても気になったのは、何よりも記事の中で動物を紹介する際に使われる呼称についてである。タクシー利用例としては、犬のしつけ方教室への送迎(そんなお金があるなら車を買ったらどうかと思うのだが)と、長距離にわたる引越し時の移動(神奈川県から兵庫県まで)の2点がとりあげられているのだが、前者は「メスのシェットランドシープドッグ「シェリ」(8ヵ月)」、後者は「雑種の猫5匹」と紹介されている。
精しく読んでいくとさらにいくつもの気になる部分が出て来るのだが、とりあえずこの点だけにしぼって見ていくと、これはいったい「単なる客観的事実の記載」なのであろうか、それとももっと他の何かなのだろうか。結論から言えばもちろん、後者であろう。そしてその最も大きな問題点は、これを書いた記者が、それを意図的に行っているのでないという点だ。つまり無意識のうちに社会の文化的制度的なコードとでもいうべきものの網の目の中で「思考」し、ふるまうことを強いられているのである。
故意に行ったのでない罪に対し、われわれの社会は相対的に軽い罰を下すしくみになっている。ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の中でこの点にふれ、オイディプス王が自分のあずかり知らぬところで犯していた過ちを悔いて、その目を刺したという逸話を対置する。
では、意図的してなされた行為とそうでないものとの間の差とは、いったいいかなるものなのだろうか。それはつまるところ、それを行う側にとっての問題に他ならず、それによって何らかの影響を受ける側にとっては何らあずかり知らぬ事柄なのではないだろうか。
それはどこか「解釈」に似たところがある。同じものを別の側面からとらえる、と書けば何やら立派なことに聞こえるが、それは新たな側面に光を与えるときにのみ評価を受けるものであって、事態をより暗いものに、何ものかを捻じ曲げ、隠蔽し、忘却しようとすることに使われることは断じてなされるべきではない。意図せずして、つまりは条件反射的にそうなってしまうなどというのはもってのほかであろう。
12月26日(水)晴れ
「肉を食べない」というと、「動物がかわいそうなら植物もかわいそうなはずだからそれはおかしい」とか、「弱肉強食の掟に従うのは当然」とか、「自分が実際に殺しているわけではないからいい」とか、「もしだれもが肉にするために動物を殺すのはかわいそうだというなら自分もそれに従うが、そうでないからみんなに従っているまでだ」とか、まとめていけばいくつかの類型ができあがるような「主張」というか、「言い訳」を返す人が私の周りではほとんどであるが、なぜ彼らはそうしたことを私に言わねばならないのか? 私は何も返答を迫っているわけでもないのに。
むろん意地悪くもこんな修辞的疑問を呈する必要もないわけだが、あんまりみんなで口裏をあわせたようにそんなことばかり言うものだから、私も時には子どもっぽくなってみたくなるわけである。
思うに、こうした主張というか、自らの態度表明は、その問題の立て方が間違っているがゆえに、私にはそらぞらしく、言い訳がましく聞こえるのだと思う。
問題の立て方やその解決へのアプローチの中には、最初から真摯に解決など望んでいないものがあると思う。この「肉食」もそのひとつで、とにかく食べることを当然とする態度がまずあって、それを正当化しようという観点から問題設定がなされるので、絶対にそれを解決することはできないのである。
例えば、「動物がかわいそうなら植物もかわいそうだ」というのがその最たるものだ。こうした視点に立つ限り、われわれは肉食に限らず、一歩も自分の立つ位置を変えることなどできないことになる。
そこにあるのは、「他者のことを考える=すべての他者のことを考える」という問題のすりかえであり、これがさらには「他者のことを考える=自分のことはいっさい考えない」という具合になる。他者のことを考えるという、いかにも道徳的な問題提起をする者には、そうした態度を表明した以上、完璧な神の境地が要求されるのである。そこで当然ながら、こうした姿勢の不可能性がでっちあげられ、われわれは深いため息とともに、「中途半端ならやらない方がまし」などというどう考えてもめちゃくちゃな議論(というか感想みたいなもの)に押しまくられることになるのである。
しかしこの世俗的な社会において、中途半端でないものなどありうるのだろうか。完全でなくてはそれをなしてはならないという問題の立て方には、どう考えても故意に問題の解決をはばもうとする無意識の悪意とそれへの無批判な賛同とが感じられる。
他者のことを考えることと、自分のことを考えるということは二者択一の問題ではなく、両立しうること、あるいは両立させねばならないことがらなのだ。それを単に無理なこととして思考停止するのは、罪を見ながら知らぬふりをするのと同様、ほとんど犯罪的な行為なのである。
自分のできることをしよう、それでいいのではないか。なぜ相手の気持ちを無駄なこととして自らの無気力のうちに従属させようというのか。
それは端的に言うならば、他者の気持ちに立っていないというだけのことだ。それを指摘されることのバツの悪さに耐えられないのだ。そうした問題提起をするならば、この問題はいとも簡単に解くことができる。他者の気持ちに立って考えよう、そしてできることをしていこう。それがいかに中途半端なことであっても、少しずつでも浸透していこう。思うに現実の生活上に起こる種々の問題というのは、明快な解決を見ることもなく、何世紀にもわたって少しずつ改善を見ていくようなもののように思われる。そうした気の遠くなるような努力を恐れることなく見すえていこう。
しかしここで注意したいことは、それが何らかの中心的で制度的かつ強制的な何ものかに基づくものであってはならないということだ。そしてこれは非常に難しいことだと思う。
何かを劇的に変えるためには、それなりの犠牲が必要であり、小さな問題には目をつぶるといったことが必要とされてしまう。しかし私はことの性質上、このことに関しては、ナショナリズムとか民族とか宗教とか商業主義とか、その他多くの何らかの結束を訴えかけるものとは趣きをことにすべきであると思う。
これは個人個人の心の問題なのだ。個々人の人間性の問題である。それをチェックできるのは自分だけなのだ。形だけの制度化も、来世での幸せを願う浄土的発想も、他者へのアピールとしての政治的ジェスチャーも、すべてそうした見えざる権力のなせるわざだ。それでは何の意味もない。みんなが肉食を夢見ながら、菜食を行うなどというのは何ともグロテスクな話ではないか。
私の話にはだからそうした弱さがある。かつて自然環境主義者たちが熱く戦ったような使命感もなければ、宗教が取り締まった権威もない。あるのはわれわれひとりひとりに残された自由な選択権だけである。それをどう使うのか。
答えから問題のとき方を考え出すようなあざといことをせず、真摯な気持ちで他者への共感について考えてみたいと思う。ものを言うこともできない弱い立場に、暴力的に追い込まれたものたちとの関係性について。そしてそれが動物たちだけでなく、サバルタンとして虐げられた人々との関係性や、さらには冷戦後うやむやにされてきたわれわれ日本人の植民地主義への責任意識へとつながっていくように。常にそれが与えられた権利であるかのように日々の生活を送ることの暴力性を思いながら。
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