Atsushi Kadowaki 1999

 

8月15日によせて

 

  戦後すでに半世紀以上が過ぎ、実際に従軍したことのない世代が増大していく中で、直接体験していない事柄に対しても責任を感じなくてはならないのか、というごく素朴な疑問をあちらこちらで耳にする。これは少し前の例だが、かつて東西に分裂していたドイツの統一をなしとげたコール独首相は、自分は従軍した経験がないので、前の世代とちがい、戦争責任を負わずにすむという幸運にめぐまれているといった発言をし、ワイツゼッカー大統領の叱責をかったことがある。
 むろん18歳で国防軍に入隊、ヒトラー暗殺にもかかわったワイツゼッカーと、敗戦当時若干15歳だったコールとでは同じ戦争とはいえそれに対する浸透の度合いも格段にちがうであろうし、何よりナチス・ドイツの高級官僚で、戦後はニュルンベルクで裁かれた父をもつワイツゼッカーに比べたら、コールに限らず誰しもが自らの「幸運」を感じるというのは正直なところでもあろう。しかしそれが本当の「幸運」なのか。あるいは言葉の上ではそうしたことを「幸運」と呼ぶにせよ、それは素直に喜ぶべきことなのか。それが問題なのだと思う。
 われわれはいろいろなことに「幸運」を感じ、「不運」を感じる。そして「幸運」をよきもの、「不運」を悪しきものととらてそう呼びならしているわけだが、ではよきもの、悪しきものとはそもそも何なのか、それらについてわれわれは知っていると言えるのだろうか。自分の力の及ばぬところのものはそれを勘定に入れず、ただ自らの置かれた状況を好悪せず、前向きに受けとめていく。その謙虚な姿勢からにじみ出てくるものの深さは、自らの幸運を手放しに喜ぶ素朴さには比するべくもない。
 ワイツゼッカーは言う。
「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在についても盲目となります。非人間的な行為を心にきざもうとしない者は、またそうした危険におちいりやすいのです」(1985年、連邦議会演説)
 ここに見られる世界や歴史に対する浸透の深さはどうであろう。それに比べるに、自分と世界との関係を可能な限り狭く限定し、そこに自らのささやかな幸運を見出して喜ぶ者がいかに利己的で底の浅い者であるかは論を待たないであろう。
 ここで私はふと西行を思い浮かべる。彼の、地獄絵を詠んだ一連の和歌のことである。そこに見えるのは、ひとはみな死ねば地獄へ落ちる運命なのだという悲痛な、しかしいつしかそれすらも超えて受け入れていこうという静かな姿勢であるように思われる。そしてこれは彼ひとりの発想というよりは、その時代の気分を代表したものと見ていいのではないかと思う。しかしひとは生まれたときから罪人であるというこの認識は、つい先頃まで人類共通の財産だったのではないだろうか。この事実にどう対処していくべきなのか、これがひとの生き方を律し、方向づけてきたものだったように思う。
 例えば、飽食よりも節食が尊ばれるのは、食というものが生命を奪うものであり、自らの生命を維持するためには、その恐ろしいほどに暴力的な行為にいやおうなく加担せねばならないという事実と向き合ってはじめて理解されるものであろう。「食」について考えるとき、そこに知性を働かせる場所があるとしたら、それはどこまでこれを削りとっていけるかというところに対してであり、どれだけ自らの感覚を喜ばせることができるかというところ(あるいはそれを享受できる機会に恵まれた「幸運」を追求すること)ではないだろう※1。
 あるいは、結局は程度の問題ではないかと指摘される向きもあるかと思う。まったくその通りである。過去に目を閉ざさないようにしようといくら努力しても、無限に広がる領域すべてに目を見開くことなどできはしない。ということはどんなにがんばってもほとんどの過去に対しては盲目ということになりそうである。また、世界中の不幸な動物や人間に対して個々に思いやりを示すことも不可能である。こうしたことに関して、「中途半端ならやらない方がまし」ということすら言う人もある。しかし中途半端でないことなど、われわれ人間のすることにあるのだろうか。だからみな地獄行きという悲壮な世界観が生まれてくるのであろう。逆に言えばそうした無力感、絶望感を感ぜずに世界と関わっていくことなど不可能だと思う。しかしその悲壮な絶望感が生み出したひとしずくの輝きこそが、われわれひとりひとりが生きたということのほとんど唯一のあかしなのではないか。そのほとんど絶望的な営みこそが、生きるに値する唯一の生き方なのではないか。そしてこの共通の地平を共有する者として、過去や世界に開かれた目を可能な限り向けていくという視点に立ったときにはじめて、過去の戦争についての責任を後の世代が感じる必然性があるのかという素朴な疑問への解答の糸口が見えてくるのではないかと思うのである。

※1 このことに関して、「食文化史における思想」 熊倉功夫(『講座 食の文化(第六巻 食の思想と行動)』1999、財団法人味の素食の文化センター)。

  Atsushi Kadowaki 2001.8.15 

 

 

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