"Black and Brown" Atsushi Kadowaki

 

暴力は何も解決しない?

 

 

 かつてのオウム真理教事件が日本の病理をうつしだしていると言われたように、今回のアメリカでのテロ事件も、アメリカの、そして世界の病理をうつしだしていると言わねばならない。

 オウム事件を、ひとりの病的な人物に率いられた脱日本的な集団で、これが何の脈絡もなく日本の市民を標的にしたもの、つまりどのような状況でもこうした反社会的な異分子は存在するもので、こうした事態は避けられないものなのだとする議論があるとすれば、それは事実の多くに目をつぶる一面的な議論であり、ある種の人間が「テロリストの本性」とでも言うべきものをもって生まれてくる不変の存在と決めつけるもので、それはそうした本性をもった人物さえ根絶してしまえば問題が解決するという、われわれの外に犯人や責任を求める責任転嫁に過ぎず、自己を批判し、将来への実りある議論の芽をつむ不遜な姿勢と言わねばならない。
 この点、すでに発生当初からその責任の一端を日本という社会の問題であると考え、この責任を引き受けるかたちでの議論が進んだことは、その事件の悲惨さに比べるべくもないが、なにがしかの明るい希望のかけらのように私には思えたし、実際こう考えることに違和感はないように思える。

 しかしオウム事件の明瞭さは、事件が日本で、日本人により、日本人に対して行われたという点にあり、カルト集団という点では国際的な広がりをもち、オウムがアメリカに支部をもっていたとはいえ、国内問題という点では最初から議論の余地はないように思われたし、海外での報道も、日本の病理、その「特殊な=固有の」国内問題といった取り上げ方をしていたように記憶している。
 これに対し、今回のテロ事件では、かたや事件を起こしたのが「テロ組織」という、国家の枠組みを超え、すこぶる国際的な存在であるのにくらべ、標的にされたアメリカは、非常に強固な国家という枠組みをもち、伝統的に孤立主義外交政策をとりつづけ、一部の例外をのぞいて領土的な植民地をもたないローカルな存在というイメージで語られている。国民の多くは国際的な問題には関心が低く、その野心的な外交政策に対しても、世界に正義を実現するものとして、ベトナムという特殊な例外はあるものの常に正当化される傾向にあり、アメリカ自身が他国の内政干渉を受けるようないわれはないという意識があると言える。つまりアメリカに無差別的なテロ攻撃をかけてきた組織が、稚拙でせつな的なものであるにせよ、背後に世界的な問題意識を抱え、世界は双方向的なものであるという存在を根拠にしているのに対し、これを受けたアメリカは、自らのうちの病理などというような国際的な広がりをもった視点に立つことなどなく、常に一方的に世界に恩恵をもたらしてきたという幻想を根拠に、自由と正義の理想国家が攻撃されたという一面的な視点に立っているように思える。アメリカがこの事件を国際的な問題というとき、現時点で見る限りは、やはりそれが双方向的なものとしてのとらえ方、つまりアメリカへの異議申し立てであるというとらえ方ではなく、自国の国内問題を世界共通の問題へと転化させ、世界をこれに強制的に参加させ、国際社会の連帯責任によって封じ込めるという、一方的な自国の正当性の申し立てのための詭弁
にしか聞こえない。「グローバリズム」という外交政策により、国家という強固な枠組みを超えて自国の政策を世界政策へと置き換えようとし、今現在も行っている世界の超大国が、たかだか数千人の脆弱でゆるやかで「グローバル」な組織体に、ここまでしてやられ、結局彼らと同じ暴力という選択肢しか残されていないと半狂乱になって思いつめるところまで追い込まれているというのはいったいどういうことだろうか。
 しかし地平という限定的な発想を捨て、自らが行ってきた領土をともなわない植民地政策、文化による帝国主義を振り返るなら、アメリカは自らの行ってきたまさにその手法によって今度は自らが追い詰められているということ、アメリカがあくまでエレガントに、誇りをもってやってきたことを、少しばかり粗野に、無骨にやり返されているだけなのではないか、彼ら「テロ組織」こそアメリカの鏡、国際社会に巣食う病理なのではないのか。
 たとえばすでに多くの指摘がなされている貧困の問題がある。理念としての自由や民主主義の前に、その日を生きるというさしせまった、本当の意味での「現実」
問題がある。これに対し有効な解決策を見つけるどころか、自由主義の名のもとに、それを助長さえしてきたのがいわゆる西欧的価値観をもった資本主義国家ではないのか。そしてそのどう考えても言われなき不平等不公正を、現実に皮膚感覚として刻みこむ機会を作り出し、貧困にあえぐ人々の怨恨の火に無神経で軽率にもあふれんばかりの油を注ぎこんできたのがいわゆるグローバリズムなのではないだろうか。これらの問題や現実を見捨ててきたアメリカに対し、彼ら「テロ集団」はこれをうまく取り込んでいる。
 さらにアメリカは、自由と民主主義を自らの文化の軸として世界に対抗軸をもたらした。しかし思えば自由や民主主義は文化というにはあまりに普遍的人類一般の価値であり、アメリカの専売特許でも何でもない。それがうまく機能しているのは伝統や慣習による社会的制約がないという、つまり歴史がないという単なる偶然に過ぎないのではないのだろうかという反省がそこにはない。そこにあるのは、広々とした空間にはこれまで何ひとつなかった、これより一からやり直すのだという「リセットボタン」感覚のすがすがしさである。しかし現実にはその空間はすでに先住民族の血で汚れていたのであり、脈々と受け継がれてきた伝統と慣習によって「汚されて」いたのである(この点、エルツ・イスラエルの約束の地として第二次大戦後にやって来たユダヤ人が、そこに住むパレスチナ人を存在しないものとして「見い出した」歴史と酷似していて興味深い)。その後の歴史にせよ然り。決してアメリカは自由でも民主主義でもなかった。しかしアメリカの偉大さは、それでもあきらめずに自己批判を行い、常により自由でより民主主義であろうと指向してきたところだ。
  しかし繰り返しになるが、これは(プラトンやニーチェは反対だろうが)人類普遍の真理とも言うべきものであって、それを自国の文化というのは不遜であるように思う。その言説の中には、自由と民主主義を自らの「文化」と言い立てないところでは、自由や民主主義が行われず、行おうという意志もないように見なされ、思わされてしまう。どれほど権威主義的で専制的な国家であっても、その歴史を見るならば、完全な専制政治が行われていたというわれわれのイメージはくつがえされることになるだろう。専制的な少数勢力と大多数の民衆との拮抗こそが社会の歴史であり、時として起こる民衆運動は、歴史上非合法で不徳なものとされていたとしても、今日的に言うならば部分的であるにせよ、何ら自由民主主義運動と変わるところはない。
 しかしそうした「リセットボタン」と集団的健忘症による自己讃美を基礎とし、自由と民主主義を自国の文化とする強力な国家の前では、歴史を持つ地域は相対的に汚れたもの、文化的に劣ったものとして表象されてしまう。こうした強い権力のもとでは、これに対する解決策は、アメリカと同化する以外にはなくなってしまう。しかし現実的にそんなことは無理であるし、誤ってもいる。理念としての自由と民主主義は人類共通の財産である一方、その土地に根付いた文化は常にそれらの理念との緊張関係の中で、批判の対象にこそなれ、本来的には対等のものである。対立の理由になるわけもない。今日それが文化や文明の衝突として、世界における対立の素朴な説明として使われているのは、純粋に政治的なものとしか思えない。他人への愛や生命の大切さを説くような宗教が、抗争の根本原因になるなどどうやって理解したらよいのか。そこには強力な恣意的読解、権力的なものをもちこもうとする巧妙に隠された政治的意図がなければどうがんばっても無理であろう。
  むろん、ことの発端がアメリカに帰するなどとは言わない。アメリカが生まれるずっと前から宗教や文化は政治的な材料として利用されてきたのだから。しかし一方でグローバリズムを進めながら、「アメリカ文化」を最高のものとすること、すなわち他を劣ったものとすることは自国の中にある文化の混在が投げかけてきた問題を他へ転嫁することで内政問題を解決しつつ、国際社会での問題を先鋭化させていくことになろう。そしてそうした文化や「民族」の価値の重層化こそ、彼ら「テロ組織」が強力に標的としたところなのだ。
 最後に、暴力による即効的な解決策という点でも両者は価値を共有している。「暴力は何も解決しない」という。これは真実に近い。しかしゆがんだ形で、ある人たちにとっては解決のようなものを提示することができることも確かだ。そこでこの「真実」は永遠に掛け声に終わってしまう運命にあるようだ。
 アメリカをはじめとして、人類はこれまで多くの問題を暴力で「解決」してきた。問題はその「解決」をだれがどう評価するのかという点にある。今回の事件後、多くの人が、アメリカによる報復が暴力の連鎖をつくることにつながるという指摘をしており、とても心強いが、現実にはNATOや日本を中心とした、結局はこの世界に不平等の構造を作り出してきた国々が、アメリカの暴力行為を積極的に容認しており、もうこれをとめることは不可能だろう。「高貴な鷲」「永遠の正義」ですらこのありさまなのであるから、どうして「本質的に」悪逆非道な「テロ集団」に、暴力以外の手段で解決をするようになどとアドバイスできるのかさっぱりわからない。暴力が限定的な政治手段として有効というのなら、それはだれにでもあてはまるはずなのだが、正義は世界で最も資産価値のある国が握っている。この世界の裏側にのみ蔓延する、絶対的かつ絶望的な不平等感をあおり立てているのは、はたして「テロ組織」なのか、アメリカ自身なのか、もう今では見分けもつかないくらいに世界はよく似ているように、私には思える。

Atsushi Kadowaki 2001.10.4  

 

 

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