ナザレ、1979年。午前5時、市の中心街。仕事を探すアラブ人たちが、日雇い--おそらくは国の反対側の農場や工場での--仕事を得ようと待ち構えている。 Jean Mohr 1979 ("After the last sky", text by Edward W. Said. Photographs by Jean Mohr, 1986)

共感という名の大地

 

 ここに一枚の写真がある。スイス国籍の「亡命」写真家ジャン・モアのとらえたパレスチナ人男性の写真である。
 キャプションにもあるとおり、男は日雇い仕事の口を得ようと、朝5時の通りに立ってじっと雇い主が現れるのを待っている。
 (ウェブ上ではややぼけてしまっているが)鋭い眼光と神経質そうな顔立ち。頬はこけ、無精ひげがうっすらとあごを覆い、目の下にはくまが見える。そこに浮かんでいるのは、今日は仕事にありつけるだろうかと心配げな表情である。
 小説ならば、この一枚の写真から、男の生い立ち、家族、抱えている問題、そして今日起こるであろう出来事についての長い物語を生み出すことも可能であろう。事実、この写真を見てから私は様々に彼についての想像をめぐらしている。この男は根っからの肉体労働者ではないのではないか。しかしながら子どもや妻、もしかしたら年のいった両親を抱え、不器用に農場や工場へと日雇い仕事の口を求めて日々を送っているのではないか。ひどく空腹なのではないだろうか。争って仕事をとりあうことには慣れているのだろうか。そのシャツはもうずっと洗濯していないのではないか。何か日々の生活の慰めのようなもの、生きていく喜びのようなものはあるのだろうか。
 むろん、私の想像力など、私が時折起きだす前に見る夢のようなもので、リアリティなど少しもなく、一貫性もなければ深まりもしない。ただ、私にできるのは彼を取り巻く状況について知るということだけである。そしてそれを通して彼のことを知ったと思うことだけである。しかし彼のことを「知る」とはいったいどういうことなのだろうか。

 この写真は、エドワード・サイードがテキストを書き、ジャン・モアが撮った写真を配した『パレスチナとは何か』(原題"After the last sky"『最後の空』1986、島弘之訳、岩波書店1995)の中の一枚である。おそらくは意図的にであろう、ジャン・モアの写真は、パレスチナというモチーフの持つ、ややもすると重苦しく、シリアスな現実に対し、繊細であたたかさにあふれ、ややノスタルジックな情緒さえ漂わせている。一方サイードの文章はいつになく軽妙で、しかしそれでいて説得力に富み、重厚さを兼ねそろえる。時折そのモアの写真とサイードのテキストとが、まるでジャズの演奏のように絡み合い、離れ、そして先へと主題を進めていく。
 そんな中、この写真は「創発」と題された章、ちょうど本の真ん中くらいに位置するページに載せられている。それはパレスチナに残ったパレスチナ人の置かれた困難な経済的状況と、パレスチナを離れたパレスチナ人の、困難の中にありながらも多々見られる努力と成功の例について書かれた章の中にある。
 近代化という、例外なく世界を覆い尽くしていく市場化の波の中で、いわゆる近代国家から移民してきたユダヤ人たちがいちはやく経済的な組織化に成功していったのに対し、農業を基盤とした前近代的な産業の上になりたっていた土着のパレスチナ人の方は、組織だった動きなどあろうはずもなく、古くからの因習に足をとられながら、次々にユダヤ人の経済的な従属のもとに置かれていった。やがてイスラエルの建国とパレスチナ人の離散、土地の収用が行われ、土地を追われたパレスチナ人の主張を封じ込めるため、もともとそこにはそんな村もなく、住民なども存在しなかったとする、まるでジョージ・オーウェルの『1984』を地でいくような隠ぺい工作が、イスラエル国家によって行われた。私が大学に在学していた頃、パレスチナ問題に関するゼミ(藤田進助教授(当時))で取り扱われていたのがこのあたりのことだ。さすがにもう現在ではこうしたばかばかしいほどにスターリン主義的な主張は聞かれない。
  同時に都市部では、パレスチナ人は最下層の賃金労働者としてイスラエル住居区へ「出稼ぎ」することを余儀なくされていた。この辺りの状況についてサイードは次のように書いている。
 「社会学者エリア・ズレイクによれば、アラブ人の労働者総数のおよそ70パーセントは、ユダヤ人居住区へ出勤しており、15歳から25歳までの労働者に限ると、この数字は90パーセントに近くなる。多くの場合、通勤費が賃金の大半を帳消しにしかねないのだが、それというのも、私たちは、ユダヤ人口が圧倒的に多い地区に夜通し滞在することをゆるされていないからなのである。実際、グリーン・ライン(1967年以前のイスラエルのこと)では、イスラエル人の雇用者のなかには、午前二時から六時まで、占領地区から来ているアラブ人労働者を監禁する者もいるのだ」(前掲書p132)
 自治区が成立した後の状況は知らないが、少なくともイスラエル都市部への経済的従属というこの状況は変わっていない。昨年9月からの衝突で、自治区は封鎖され、イスラエルへ「出稼ぎ」に行くことができず、卒倒するほどの失業率となっていることなどを耳にする。
 ところで先の引用の最後「イスラエル人の雇用者のなかには、午前二時から六時まで、占領地区から来ているアラブ人労働者を監禁する者もいる」というあたりに関しては、大学の前述のゼミで、パレスチナ人労働者たちへのインタビューによるなまなましいレポートを読んだものである。狭い一室にぎゅうぎゅうに詰め込まれた労働するためだけの存在という状況は、バブル末期のわが国で、外国人労働者をふくむ最下層の労働者が置かれた状況とも相通ずるものがあり、東京の山谷では実際にそうした現場が見られるからゼミのみんなで泊まろうという計画もあった(頓挫したが)。
 そして当然のことながら、その当時の私にはそれらはすべて他人ごとであり、バブル末期という時期的な要因もあいまって、何ら現実感を持ったものとはなりえなかった。真剣に感じ取ろうとは考えていなかったのだ。そして実に皮肉なことに、大学卒業後、入った会社を辞めた私は、バブル崩壊後の長期的な不景気の中で、ほぼ日雇い労働者的な立場に追い込まれ、去年あたりからようやく日々の暮らしに事欠くことはなくなってきたものの、貯金はゼロで年金も払えないという、常に経済的不安の中にある状況にあってはじめて、こうしたかつて大学時代に耳にした状況が、アメリカでのテロ事件を機に、真に現実味を帯びて立ち上ってきたのである。

 確実に言えることは、10年前であったなら、この写真を見ても私は何ら目にとめなかっただろうということだ。もし目にしたとしても、その上をただ視線が滑っていくだけだっただろう。そして今確実に言えることは、この人の不安、さびしさ、悲しみ、恐れ、空腹、情けなさ、孤独、喪失感、虚脱感といったものを、自分のものとしたい、共に分かち合うことで減らしたいということである。それは過去、現在を問わない。これはもう昔のことだとは思わない。われわれの過去は不実による悲しみに満ちている。死者の霊を弔うように、そうした気持ちを分かち合うことで慰めたい。私は強くそう考えるようになった。
 しかし私はそれを、単なる情緒的な観点から語っているのではない。実際問題として、「民族紛争」(それは民族の違いという文化的・生物学的レベルの理由によるというよりは、政治的理由から起こる争いであるように私には思えるのだが)の多発する今日においては、過去の過ちを認め、これに対してどう対応していくかという姿勢は、個人レベルを超えて今後さらに重要な政治問題となってくるだろう。そしてその問題解決の鍵となるのが、ばかばかしいほどに当たり前ではあるが、他者への共感にほかならないと思う。もう少し言うならば、さらに一歩進んだ共感とでも言おうか。
 例えば、イスラムでいうところの「ラマダン」は、みなで行う断食である。これによって強者も弱者も、富者も貧者も、ともに共感することができる。もともとイスラム教徒なのだから、それだけで共感しあっている、という問題ではない。苦しみをともに分かつことで得られる共感は、それを知らぬものには説明不能なほどに豊かな言語である。同じ釜の飯とわれわれが言うとき、それは前提としての貧しさを分かち合っている。共に戦った戦友の分かち合う共感は言うまでもない。
 体感による共感を、われわれは広げていく必要があるのだ。子どもに教えていて、ときとして人間が身体的に成長していくのを見て改めて驚くことがある。乳歯が抜けて、歯が生え変わるという事実を改めて目の当たりにしてつくづく人間も動物なのだと思うことがある。労せずして世界の情報が手に入るような錯覚に陥るとき、われわれは自分たちが現実には触れて感じることのできる範囲でしか、本当には理解しえないのだということ、少なくとも体験する以上に豊かな知識はないのだということを忘れている。そうした視点に立って他者を受け入れることが、単なる人道的なポーズではなく、本当に必要とされているのだ。
  まがりなりにも芸術にたずさわる生活をしているのも、私のこうした考えの基礎となっているように思う。自分の作るものがどんなに稚拙であっても、制作をするという行為を通してひとを理解することができるようになっていく。その作品のもつ意味合いについて、より深く知り、感じることができるようになっていく。私はよく、テス・ギャラハーかレイモンド・カーヴァーが言っていたことを思い出す。小説を書くことによって、グッド・ライターにはなれなくとも、グッド・リーダーにはなれる。
 例えば商業的な成功だけがこの世の目的であるならば、そこにあるのは勝者と敗者という線引きであり、私のような人間は存在する意味すらなくなってしまう。しかしどこまでひとと感情を分かち合うことができるのか、どこまで自分の共感の領域を広げていくことができるかということを目的としてとらえたとたん、この世はそれまで閉じかけていた口をゆっくりと、大きく開いていくのが見える。ここにこそ、世界の問題を解決していく糸口が見えるように思うのだ。


 私がこうして述べているのは、楽観的で理想主義的な、世間知らず世迷いごとなのだろうか。再びジャン・モアの写真に戻るならば、私は一生この男のように、自分たちの生活を守るためにひとと争い、たえず目を光らせ、お願いし、主張し、空腹と自尊心の欠如に耐えていくことができるのだろうかと思う。自分の体験したことと引き比べ、想像力を働かせ、どこまで彼の身に自分をおけるか考えてみる。経済的な不安には耐えられるだろう。空腹にも、みずぼらしい生活にも耐えられるだろう。しかし自分ひとりならまだしも、妻にもそれを一緒に耐えるよう強要できるだろうか。そして何より、自分のうちにある自尊心がずたずたに傷ついていくのに耐えられるだろうか。
 サイードはパレスチナの法律家・著述家ラジャー・シハーデの言葉を引きながら、これら絶望的な状況の中で、しっかりと根をはって日々の生活を送っている人々の心を支えているものが、「自由」であるとし、次のように言う。
 「自由とは、降伏でもなければ「見境なしの激烈な憎悪」でもなく、「自分の精神こそ、圧制者といえども一指も触れることのできないもののひとつなのだ」という感覚である」(前掲書p134)
 この孤高の自由をもちつづけること。それが人間としての尊厳を持った生き方を保証する最後の砦なのだ。そして思うに私はその砦を下から支えるものこそが、共感という名の豊かな土壌であると思うのだ(しかしそれにしてもこの「自由」の意味する内容の、何と範囲の広いことか)。
 ミラン・クンデラはその小説『存在の耐えられない軽さ』(1984)で、同情=共感について次のように述べている。
 「同情するということは他の人と不幸を共に生きるのみか、その人と喜び、恐怖、幸福、痛みなど他のどんな感情をも共に感じられるという意味である。この同情はすなわち感情の持つイマジネーションの最大の能力を示し、感情の持つテレパシーの芸術の意味で、感情の階層での最高の感情である」(千野栄一訳、集英社文庫、p29)
 この世に自分がひとりでないということ。自分の受けた不当な仕打ちが、不当なものとして共有され、無にされないこと。それを理解してくれる人がいるというあたたかさ。その確かな大地の上にこそ、自由は確かなものになり
、実質を伴った豊かな知性が育っていくのではないだろうか。

2001.11.2  

 

あひるの書斎

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