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Atsushi Kadowaki 2002

 

時間は等価値の互換性を持つか?

 

 自分で塾をやっていて、ときどき(よく)あるのだが、生徒がひとりも来なかったりする。早めに連絡をくれれば、1時間以上もかけてやって来て、個展が近かったりするのに絵が描けない、などともんもんとしながら本を読んで時間をつぶすこともないのだが、もちろん相手は子どもである。子どもはもちろん「不完全」で「世界が貧しい」状態(ハイデガーは動物に関してそう言ったらしい)にあるので、大人と同じ責任は問われない。
 ではその責任は子どもでない者、いわゆる大人が等しく負わねばならないのかと言えば、そうではなく、親権者たる親がもっぱらその責任を負っている。つまり親が早めに連絡をさせればいいわけであり、こういうわけで、この点に関しての相手は子どもではなく大人である。ということは、結局大人の問題に還元されるわけであり、その世界認識の問題に他ならないのである。
 例えば時間に関する認識。時間は等価値である、という物理的な世界観をおぼろげに持っている一方でわれわれは、時間には高い価値のあるものと低い価値のあるものがあるとも思っている。つまり、1分間はそれを共有している人々に対して等しい単位として存在するが、ひとりひとりの感覚としてそれをとらえなおすと、朝の忙しい時と夜のゆったりした時間とが同じ時間であるとは思えない。
 単位として時間が、究極の平等性を備えているという不思議についてはまた次回にゆずるとして、ではその価値があるときには増し、あるときには減ずるのは何によるのか。
 例えばわれわれが、「思い出」と呼ばれる過去の時間について思い起こすときのことを考えてみると、自分たちにとって都合のいいことがあったときを「貴重な時間」、そうでなかったときを「思い出したくない過去」といい、前者に高い価値を、後者に低い価値を与えるだろう。そして未来に向けて、前者のような経験であればなるべく長いことを、後者であればなるべく短いこと、あるいは全然存在しないことを望むであろう。
  ではその「貴重な時間」と「思い出したくない過去」とは、先に簡単に都合がいい・悪いと説明しておいたが、いかなる点で価値があり、ないのか。この点に関して、私は時間が「資本」ともいうべきものとみなされているように、それも無意識に、当然のごとくそうであるように思い、思わされているように見える。つまり一般に、その時間が直接的であるにせよ間接的にであるにせよ、資本を増大させるときには価値があり、そうでないときは価値がないと信じられているように見える。
 いやそうではない、お金にはかえられない思い出というものがある、と言う人も多いだろう。しかしその思い出を投げ打ってでも毎日会社へ通い、朝から晩まで会社で働いている人々は、定めし会社でいい思い出を作っているということか。あるいは不本意ながら自分の時間を切り売りせねばならないことに対する抵抗が、それを解き放つ方向へ向かわず、逆にさらに多くの人間をその中へ引き込む方向へと向かっているのだろうか。つまり自分の「思い出」の価値が相対的に下がらぬよう、社会全体のその価値を下げているのではないか。
 話が裏道へそれていくように思える。やはり今の私には、時間がお金を生む限りにおいて価値があり、そうでない場合には低い価値を与えられているように思えてならない。そしてそれ自体は個人的な価値観の問題であり、いわばひとの勝手であるとも言えよう。
 しかし、やっと私の言いたいところへとやってきたのであるが、「等価値のお金を生む時間」という発想は、その時間が売買可能であり、交換可能であり、その価値を決定することが一般的に可能であるという認識へと、無意識につながっているのではないか。つまり、品物と同じように、人間の時間、つまりは人生が売り買いできる、互換性があるという発想を、とても安定したものにしてしまっているのではないか。
 例えば一生に3億円かせぐ人がいたとしたら、極端に言えばその人に3億円払えばその人の人生を占有できるという考えにつながるのではないか。これは笑い話ではない。
 私は以前いた個人塾で、時間給講師として働いていたが、生徒が休んだときには「その時間で」トイレそうじをやらされたものだ。何か間違っていると思いながら。しかし私にトイレそうじをさせた経営者は、他にもたくさん問題点があったとはいえ、この点に関しては明らかに悪意も何ももっていなかったと思う(いや、他のおそろしくたくさんあった問題点についても同様だった
かもしれない)。単純に彼の世界では時間は等価値の互換性をもっており、それを有利に活用したのだ。
 また、これも悪気などだれにもないわけだが、私にとって多分に経済的理由がからんでいる塾での指導は、私の活動のほんの一部であり、それが終わったらつまんない絵を描いたり、このホームページにくだらないことを書き連ねたりして、しかしその時間にも等しい価値を与えており、つまりはお金を生む時間かどうかということは最低限の生活に慣れてしまった私にはほとんどどうでもいいことになっているのだが、塾で働いている時間はお金になり、そうでない時間はほとんどお金にならない、あるいは全くお金にならないので、前者を職業、後者を趣味と呼び、なるべく前者に専念させようとしたり、前者が終わるとお疲れ様、ゆっくりしなさいとかいって、やっととりかかれる私の本来的な時間を理解してくれない方もいる。これは繰り返して言うが、全然悪気などない。しかし決して理解できないだろうことがらなのである。いや、理想という何だかよくわからない言葉として「理解」されるかもしれない。しかしやはり理想と現実は違うなどと言われて結局は理解されないであろう。
 おそらくこれは遺伝子の違いである。努力目標や理想として何かを語り、そこへ向けて歩んでいく、ということを私も学生の頃までは信仰していたが、この年になって(まだ33になったばかりだが)思うに、目標や理想として語る時点でそれは自分の遺伝子には入っていないのではないかと思う。私にはお金よりも価値ある時間があるのは当然である。それは「思う」とかいう世界観のレベルの話ではなく、人間は呼吸をするということに価値をさしはさむことのできないのと同様、あるいはそれにそうか、呼吸というのは大切なのだなという程度にしか認識できないのと同様に、そうなのである。むろんこれは程度の問題であって、単に相対的にそうなだけではあるが。
 と、いうことで、私はある人から見るととても暇そうであり、ある人から見るととても忙しそうなのである(誰でもそうだが)。

2002.2.18

※「器用仕事日記」を修正・補筆したものです。

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