
Atsushi Kadowaki 2002
見えないもの
| 以下は、「見えないもの」のsayaさんとの掲示板でのやりとりから生まれたものである(引用は許可を得て引用) |
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世界とは、私に見え、私に感じられるもののいっさいである、という考え方がある一方、世界は私とは関わりなく存在する、という人もいる。 そして、世界に意味を与えるのでなく、価値を与える、もっと正しく言うなら、世界の意味を見出すのではなく、世界の価値を探し出すことこそが、われわれの営みのある部分、特に創造的活動とか、芸術と言われるものであるように思われる(例えばスーザン・ソンタグの言う「反解釈」とはこのことではないかと私には思われる)。
* * * ぼんやり この文の奇妙な手ざわりは、見えるものは見え、見えないものは見えないという認識を超えたところに存在しているからではないかと思う。見えるもの、見られる対象と自己が同一化し、一体となったとき、自分は見る/見られるの両方へと浸透しているため、いわば部分集合から全集合へと移行し、その場に存在する世界そのものとなってしまうために、何かを見ているという意識ではなく、何かとなっているという事実となる。 「空をぼんやりとみるのがすきです。雲の流れやかたち、鳥の飛ぶ姿や空の道などいつの間にかぼーっとみとれてしまいます。ハッと我に返ったときに、他でもない自分が 其処にいることに気が付かされます。これって、キャンバスに向かうときの心理状態に似てるなぁ、などとなんとなく思いました。」 では、この状態をわれわれは「見えない」と言うであろうか。逆に「見える」とはどういうことを言うのか。ある対象を別の形式、例えば言葉とか、図や音に変換することを言うのか。それそのものに近づくこと、同化しようとすることも、その中には入らないだろうか。いや、むしろ何かを通さず、何かの助けを借りないという意味ではより直接的であり、純粋な認識とは言えないだろうか。
* * * @「私は空を見る」 あくまで空という対象を見ている自分に重きが置かれている@に対し、Aでは見ている自分は後退し、対象となっている空に重点が置かれている。 B「空がある」 @からBへ進むに従い、「私」という認識者は減退し、ついにBに至っては消滅してしまう。 「空がある」において、認識者としての人間の存在は限りなく無に等しい。それは神によって創造され、神によって人間に下された世界、すでにしてそうあるべくしてあるものとしての世界を、いやしくもわれわれ人間が永遠不滅の事実を表現したものとして存在する。 「私は空を見る」では、「私」という人間がクローズアップされ、個人がその意志にしたがって行動する世界、「私が」「見る」ということによって世界が生まれるという世界観が前面に表現される。 しかし「私(に)は空が見える」では、神によって作られたものであるにせよ、「私」によって認識されたものであるにせよ、世界の存在の確かさはゆらぎ、対象である空の存在の確かさはかなりあやうい。それはとても個人的でローカルで特異な認識の表明であるかのようだ。「私(に)は」そう見えるのであって、しかしそれが世界を作られた神の意思であるのか、人間に共通の認識(そんなものがあるとして)であるのか、楽観的な断定は見られない。 絶対的な価値や、意志による創造があやしげなものとなり、「大きな物語」を語ることが不可能に思えてきたわれわれにとって、空はすでに確かにそこ「ある」ものでも、「見る」ことによって存在するものでもなく、われわれの身近な物語を積み重ねていくことによって、より確かな関係を築き上げ、その結果、より確からしいという意味で「見える」ものとなってしまった。こんな風に私はこれらの文を「解釈」したい気持ちになる。
* * * ぼんやり 「なにをみてるんだろう」という問いは、焦点が定まらないさまを表わしているように思える。それはなぜかと言えば、いろいろ見るところがあって選べない、複雑すぎて把握しきれない、表面的には見えないものを見つけたい、といったものが考えられる。そしてそれは「
キャンバスに向かうときの心理状態に似てる」のである。 ハンナ・アーレントは芸術作品とその源泉である思考との関係について、次のように語っている。 「芸術作品も偉大な哲学体系も、厳密にいえば、純粋に思考の産物と呼ぶことはできない(中略)というのは、芸術家や著述する哲学者が中断して、その作品の物化のために変形しなければならないのは、まさにこの思考過程だからである」(『人間の条件』、1958) なぜそうした作品ができあがったのか、どういう過程を経てそうなったのか。つまり「思考過程」をこそわれわれは絵画の上に読み取らねばならない。その作品の上に自分にとっての意味を問う前に。 @「私はこの絵に、ある種の感情を見る」
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