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Atsushi Kadowaki 2002

 

見えないもの

 以下は、「見えないもの」のsayaさんとの掲示板でのやりとりから生まれたものである(引用は許可を得て引用)

 

思考停止

 投稿者:saya  投稿日: 3月 5日(火)22時21分15秒

ぼんやり
見上げた空に
なにをみてるんだろう

 

誰が、でしょうか

 投稿者:門脇篤  投稿日: 3月 6日(水)00時17分04秒

それは「わたし」をぬけ出すときにあらわれる詩的な表現に思われます。
「わたし」を離れるということが、「思考停止」という言葉の意味なのでしょう。
そして「世界」の外側に立つことによって見えるものを表現しようとすることは、まさに「見えないもの」を見、「語りえないもの」について語るという超越的立場に他なりません。
「世界」がすなわち「わたしの世界」以外のなにものでもない、というきわまった観点からはとうてい到達しえない境地に、ふうわりと、軽やかに立たれている様子が、見事に描かれていると、深く感銘を受けました。

 

>門脇さん

 投稿者:saya  投稿日: 3月 7日(木) 時 分 秒

空をぼんやりとみるのがすきです。 雲の流れやかたち、鳥の飛ぶ姿や空の道など いつの間にかぼーっとみとれてしまいます。 ハッと我に返ったときに、他でもない自分が 其処にいることに気が付かされます。 これって、キャンバスに向かうときの心理状態に 似てるなぁ、などとなんとなく思いました。

 

 世界とは、私に見え、私に感じられるもののいっさいである、という考え方がある一方、世界は私とは関わりなく存在する、という人もいる。
 おそらく前者においては、自分にとって認識されないことは私にとって価値をもたない=意味をなさない、逆に言えば私にとって何らかの価値=意味をもつものは、私に認識される、ということであるように思われる。
 ここで問題と思われるのは、存在の価値と存在の意味とが同義の互換性をもった
語として使われていることで、それが後者との決定的な違いであるように思われる。
 すなわち、後者においては世界の価値と、世界の意味とは全く異なるものであるとされているがゆえに、世界は私とは何ら関わりなく存在している=価値をもっているのであり、私がどう世界を認識するか=どう世界を意味づけるかとは本質的に別の問題であるという認識があるように思えるのである。

 そして、世界に意味を与えるのでなく、価値を与える、もっと正しく言うなら、世界の意味を見出すのではなく、世界の価値を探し出すことこそが、われわれの営みのある部分、特に創造的活動とか、芸術と言われるものであるように思われる(例えばスーザン・ソンタグの言う「反解釈」とはこのことではないかと私には思われる)。
 であるとするなら、見えないもの(単に認識されうるという意味でなら見えるものも含めて)を提示することが、その大きな部分であるように思える。しかもそれは見えないものとしての提示となるだろう。なぜなら、見えないものは見えないからこそそう呼ばれるのであって、見えるものとなったとたんに、当然のことながら、見えるものと呼ばれるから。つまり、ある価値を提示するのでなく、ある意味を提示することになるのだから。
 そうした意味で、人間の視力を超えたものをわれわれに見せるもの、あるいはそれらの間に確かに存在する関係をある構造や法則として見えるようにするものとして、自然科学は世界に意味を与えるものと言える。
 これに対し、われわれの前に現前していないものの数々を、それそのものとして投げ出すものこそが、文学であったり、音楽や美術であったり、あるいは人に感動を与えずにはおかない人の生き様であったりするのだと思う。

 

*     *     *

ぼんやり
見上げた空に
なにをみてるんだろう

 この文の奇妙な手ざわりは、見えるものは見え、見えないものは見えないという認識を超えたところに存在しているからではないかと思う。見えるもの、見られる対象と自己が同一化し、一体となったとき、自分は見る/見られるの両方へと浸透しているため、いわば部分集合から全集合へと移行し、その場に存在する世界そのものとなってしまうために、何かを見ているという意識ではなく、何かとなっているという事実となる。
 このことは、上の文を書き上げた後、これについてさらに詳細に述べた筆者自身の次の言葉からも明らかである。

「空をぼんやりとみるのがすきです。雲の流れやかたち、鳥の飛ぶ姿や空の道などいつの間にかぼーっとみとれてしまいます。ハッと我に返ったときに、他でもない自分が 其処にいることに気が付かされます。これって、キャンバスに向かうときの心理状態に似てるなぁ、などとなんとなく思いました。」

 では、この状態をわれわれは「見えない」と言うであろうか。逆に「見える」とはどういうことを言うのか。ある対象を別の形式、例えば言葉とか、図や音に変換することを言うのか。それそのものに近づくこと、同化しようとすることも、その中には入らないだろうか。いや、むしろ何かを通さず、何かの助けを借りないという意味ではより直接的であり、純粋な認識とは言えないだろうか。

 

*     *     *

@「私は空を見る」
A「私(に)は空が見える」

 あくまで空という対象を見ている自分に重きが置かれている@に対し、Aでは見ている自分は後退し、対象となっている空に重点が置かれている。
 そしてそれは「見える」という語を、「見ることができる」という可能の意で受け取っているのではなく、なかば無意識のうちに「目に入る」という、いわば自発の意で受け取っているからであろう(例えば「見える」に相当する古語の「見ゆ」は、「見る」に自発の助動詞「ゆ」がついたものであるという事実もこれを裏付ける)。
 また、Aの「私は」という主語を省略することでいっそうそれがよくわかる。「空が見える」という文には、うっすらとそれが世界の窓である「私」によって認識されたものであることをうかがわせながらも、なかば一般的で普遍的な事実ででもあるかのように、「空が見える」と主張する。これはほとんど「空が(そこに)ある」という文と同義である。

B「空がある」

 @からBへ進むに従い、「私」という認識者は減退し、ついにBに至っては消滅してしまう。
 といって認識者が完全にいなくなってしまっては「空がある」といっても意味がないのでもちろん、幕の後ろに隠れている。私にはこれを次のようなものに類比してしまいたい誘惑にかられる。
 すなわち、「空がある」という文を、神によって与えられた、作られたものとしての世界に、「私は空を見る」を人間中心主義的な、作り出す世界に、「私(に)は空が見える」を、それらを喪失した後の世界に。

 「空がある」において、認識者としての人間の存在は限りなく無に等しい。それは神によって創造され、神によって人間に下された世界、すでにしてそうあるべくしてあるものとしての世界を、いやしくもわれわれ人間が永遠不滅の事実を表現したものとして存在する。

 「私は空を見る」では、「私」という人間がクローズアップされ、個人がその意志にしたがって行動する世界、「私が」「見る」ということによって世界が生まれるという世界観が前面に表現される。

 しかし「私(に)は空が見える」では、神によって作られたものであるにせよ、「私」によって認識されたものであるにせよ、世界の存在の確かさはゆらぎ、対象である空の存在の確かさはかなりあやうい。それはとても個人的でローカルで特異な認識の表明であるかのようだ。「私(に)は」そう見えるのであって、しかしそれが世界を作られた神の意思であるのか、人間に共通の認識(そんなものがあるとして)であるのか、楽観的な断定は見られない。
 この文は言う。世界はすでに崩壊してしまった。世界一般などというものはもう存在しない。あるのは私が住むこの不確かでローカルな、どこまでが他の世界と共通で、どこまでがそうでないのか、自分はいったい世界の中心に位置するのか周辺に位置するのか、そもそもそうした地理性というものを、この世界はもっているのかもわからない、そうした場所であり、私はそこからながめて見るに、どうやら空が見えるように思えるのだが、さてどうだろう、と。それは私にしか見えないのか。それともみんなにも見えるのか。

 絶対的な価値や、意志による創造があやしげなものとなり、「大きな物語」を語ることが不可能に思えてきたわれわれにとって、空はすでに確かにそこ「ある」ものでも、「見る」ことによって存在するものでもなく、われわれの身近な物語を積み重ねていくことによって、より確かな関係を築き上げ、その結果、より確からしいという意味で「見える」ものとなってしまった。こんな風に私はこれらの文を「解釈」したい気持ちになる。

 

*     *     *

ぼんやり
見上げた空に
なにをみてるんだろう

 「なにをみてるんだろう」という問いは、焦点が定まらないさまを表わしているように思える。それはなぜかと言えば、いろいろ見るところがあって選べない、複雑すぎて把握しきれない、表面的には見えないものを見つけたい、といったものが考えられる。そしてそれは「 キャンバスに向かうときの心理状態に似てる」のである。
 逆の方向から見てみよう。つまり、キャンバスに向かうときではなく、できあがった作品の側から。

 ハンナ・アーレントは芸術作品とその源泉である思考との関係について、次のように語っている。

 「芸術作品も偉大な哲学体系も、厳密にいえば、純粋に思考の産物と呼ぶことはできない(中略)というのは、芸術家や著述する哲学者が中断して、その作品の物化のために変形しなければならないのは、まさにこの思考過程だからである」(『人間の条件』、1958)

 なぜそうした作品ができあがったのか、どういう過程を経てそうなったのか。つまり「思考過程」をこそわれわれは絵画の上に読み取らねばならない。その作品の上に自分にとっての意味を問う前に。

@「私はこの絵に、ある種の感情を見る」
A「私(に)はこの絵に、ある種の感情が見える」
B「この絵には、ある種の感情がある」

 

以下執筆中

 

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