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今夜の番組チェック

 

Atsushi Kadowaki

 

物語の「排除」

 物語を排除することは、他者を排除することに他ならない。そんな風に考え始めていた。私や私が作ったものがどのようなものであれ、そこに何らかの意味や物語性を見いだしていくことを避けることはできない。私や私の作ったものが、世界の内部にある以上は。
 そもそもの起こりは、sawada yamamotoさんの行っているマルチプル・プロジェクト(詳しくはこちら)で、現在位置の×印のついた石を友人に送ったことだった。sawadaさんが活動している沖縄からそれが送られて来たということ、送った友人がアラビア語専攻で、その後ヨルダンの大使館などで働いていたこともあって――結局これもよく考えてみると私の作った物語に過ぎないのだが――、友人は石をパレスチナでのインティファーダ(武器をもたないパレスチナ人が武装したイスラエル軍に投石することから始まった抵抗運動)を思わせたのではないのだろうか、「沖縄」「石」というふたつから、「基地反対」という言説を読み取っていた。
 掲示板でのやり取りから、sawadaさんにはそうした意図はなく、そもそも基地は仕方のないものという認識であるという話をうかがって、私はとてもショックを受けたのだと思う。何にかといえば、そのふたつのすれ違いの大きさにだろう。sawadaさんはいともたやすく、いろいろな解釈があって面白いとおっしゃっていたが、私にはとうていそうした余裕はないだろうと思えたのだ。
 そしてそこから私のこのよくわけのわからない旅が始まった。当初は、解釈されていくこと、それも見る者にとって見たいように見るという態度が、どうにも耐えられないものに思えたのだと思う。むろん、作者の手を離れてしまえば、それは見る者のものである。いくら作者がそれは違うと言っても無意味で、ばかげている。解釈は見る者が作り出すものなのだから。そこでは作者という特権は限りなく小さい。
 私はその頃、「解釈」と同じような意味で、「物語」「意味」という言葉を使い始めた。おそらく解釈を退けることなどできる話ではない、という直観が、そうしたある種あいまいな言葉を選ばせたのかもしれない(あるいはこっちの方がありそうな話だが、正直何が不満なのか自分でよくわかっておらず、適当に選んだ言葉だったような気もする)。解釈よりも少し領域の狭い、ある方向性をもった言葉として私はそれらを使い始めたように思う。つまり、ロマン主義的で予定調和的な、ある人にとってある意味都合のいい物語や意味という意味で。
 例えば、国賊とされた兄の埋葬を禁じられた妹アンティゴネが、法による処罰をもかえりみずに兄を埋葬したとき、それを兄弟愛とか家族愛という枠組みの中に押し込んで祭り上げるのは、私にはどうにもがまんできない。そんな物語にでっちあげられてしまうなんて耐えられないと思う(「真理」のために死んだソクラテスや「愛」のために死んだイエスにしてもしかり)。彼女はそんな物語のために自分の身を捧げたのではなく、どんな意味の次元もなく、とになくなすべきことと思うことをしたのである。そこでは思考と行為との間に「物語」が入り込む隙間はみじんもない。
 しかし実際にはそうしたことについて語る時には決まって、否応なくしのびよる、わかりやすくて安価な意味づけの影のようなものを感じずにはいられない。口にしたとたん陳腐で、言いたいことの半分も言えないような、口を開かなきゃよかったと思うような、どんよりした嫌な気分になる。これが私の言う「物語」についての素描である。
 春日堂のかすがどさんにはこの件でずいぶんつきあっていただいた。掲示板でのやり取りで、かすがどさんは美術をやって来られた方にふさわしく、「物語の排除」というのが近代絵画の特徴であること、それが近代産業技術の発展に伴う機能主義から来ていることを手際よく素描してくださった。私にはこれは少なからずショックだった。絵画について自分が何も知らないことについて驚くのはいつものことなので、そういう意味でのショックではもちろんなく、私の感じる排除したい「物語」との発想が、質的にあまりに違っていることで、恐ろしいほどに何が何だかさっぱりわからない違和感に対するショックだったのだと思う。しかしその時には何がそんなに違和感なのかよくわからず、自分にわからないことをひとに伝えることもできないので、まったく噛み合わないお話で終わってしまった。
 繰り返しになるが、もちろん社会の内部に存在する以上、解釈され、物語を付与されないものはありえない。そこから全面的に逃避するには、他者を排除するしかないだろう。私にしかわからないものがある、というのは確かに正しい。しかしそれは他者にとっては無意味である。だがそれは本当に無意味なのか。
 ここでまたsawada yamamotoさんへと立ち返る。先日行われたsawadaさんの個展をウェブ上ではあるが拝見し、その時の様子をつづった文章や写真を目にした時、「私」にしかわからないものが正しく伝わること、つまりそれが「どのようであるか」などはささいな点であり、そんなことよりも、「私」にしかわからないものが「ある」ということ、それこそがまさにこの営みにかかっている一点であることを目にしているような気がした(という「物語」を生成した)。それが表現されている以上、「どのようであるか」はそれを見た人にとってすべてが真であるという、思えば当然のことを思い知らされるような思いだった。
 そしてそこにあるのは、これまたとてもあいまいな表現ではあるが、「純粋さ」であるように思う。どのような意味において純粋なのか、と言えば、「因果律をもたない」という点で。そしておそらくこれこそが「物語を排する」という言葉によって、私が今まで言いたかったことなのだ。
 世界の内側には、本当の意味での必然性など存在しない。何もかもが偶然性の産物である。私という存在、私という思考、私という趣向。しかしそれを意味の糸でもって縫い合わせ、大きなひとつの物語を作り出そうと、あるいはその物語を読みたいと、私たちは思う。この世界に、どんな意味もないということには耐えられないから、などという切羽詰った理由からだけでなく、何よりそれが喜びでもあるのだから。しかし最近の私にはそれがどうしてもうさんくさく見えて仕方がない。何かのため、何かの必要性から、何かと何かの法則からものごとを位置づけることに、こざかしさ、不純さ、不誠実さを感じ取ってしまう。かすがどさんが説明してくれた機能主義からの物語の排除などはその最たるものだ。なぜならそれはすべてを必要性・必然性から秩序立てようという試みなのだから。
 私にはひとつの経験がある。例えばそれは猫たちと過ごすときのことだ。うちの猫たちとは「話」ができてしまうところがあるのであれなのだが、例えば墓地にある猫のたまり場で過ごす時間。見知らぬ猫たちが何匹も私の周りに集まって来て、思い思いの距離をとって、何を話すでもなくそれぞれのことをしている。しかしお互いを感じあい、その場所で、その時間を、まるで永遠のうちにある現在のように経験している。私はそんな時、どんな「物語」も考えていない自分がいるように思う。その猫たちはそのようにしてあり、その場所とその時間とはそのようにしてあり、私もまたそのようにしてある。それだけ。
 あるいは川原で石を拾っている時、くつをぬいで川の中に入り、石に腰かけている時、じっと水の音に聴き入って何時間もそうしているような時。私は手にとった石を、まさにそのようなものとしてながめ、同じようにして水面の模様や、肌に感じる暑さ、
流れることのない時間を、そのままに手にする。
 私はそうやってこの数年間、莫大な時間を過ごして来た。絵を描くよりも、そういった時間の方がどれほど多かったことか。しかしそれこそが、私にとっての「生」のあり方そのものであると思う。ばかばかしいほどに無意味ではあるが。
 そしてそうした文脈から、口にしたとたんにばかげたものになってしまうだろう私の倫理的な態度から、私が「物語」を排したいということを言っている、ということがわかっていただけるだろうか。いや、私自身本当にこれでわかったと言えるのだろうか。どうだろう。

2002.7.9
「器用仕事日記」より転載

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