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美という事実の偶然性

〜カフェ・モーツァルトでの個展によせて〜

 ここ数年、仙台近郊の風景に取材した風景画を描いてきました。この春には銀座にてそれら発表する機会をもちましたが、その折、それがどこの風景であるかということは、ほとんど意味をもたないことに気づきました。美を描いているのであって、ものを描いているのではない(「世界は事実の総体であって、ものの総体ではない」ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』1.1)という発想からすれば、それは当然のことでしょう。
 今回、カフェ・モーツァルトという空間で個展を開くにあたり、思い切って題材を石に限ることにしました。ここは私がもう何年も通っているお気に入りの場所であり、アンティークの木の家具に囲まれ、石との相性もとてもいいように思われます。石は広瀬川の上流で拾い集めたもので、その意味では仙台近郊の風景には違いありません。石は風景ほどの複雑さはないとはいえ、それは美という事実の偶然性を示すには充分に豊かなモチーフです。しかもこれほどの数にのぼる石の数からすれば、私の描こうとする石はほんのわずかなものです。私はなぜこれを選び、それを選ばないのか。それが二重の意味での偶然性となって、私の閉じられかけたこの世界に一陣の風を導き入れます。
 とは言ってもこの石の連作を前に感じるのは、偶然性の豊かな軽みというよりは、圧倒的に閉じられた息苦しさの方でしょう。そしてそれがまさに私の現在における限界であると言えます。 私が私であって、それ以外のものではない、ということ。私が感じる幸福感や罪悪感は、どこまでいっても私以外の人間が感じるもととは異なっていて、しかもそれがどうしてそうであるのかを説明することは無意味である。つまりそれは偶然性によって支配されている、というどうしようもないほど明らかな事実。それにもかかわらずものを語ろうとする、めまいがするほどの不確かさは、私をしてつい必然性の確かさという世界を設定せしめ、そこへと逃げ込ませんとします。つまり私は「物語」を排してしまいたい、という空虚な願望にとりつかれます。
 しかしもしそれが実現されたなら、それは単なる「イコン」のようなものになるでしょう。つまりそれと対応関係にある、それのかわりになるもの。そしてそれはもはや芸術ではありえません(「芸術哲学にとって本質的な問題は、作家が材料や製作手段に「話し相手」の資格を認めるかどうかを知ることである。(…)しかし、いかなる美術も、機会であれ、外的な偶然性によって完全にとらえられてしまう場合にはもはや美術の名には価いしないであろう」クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』p36-37)
 私にとっての特別な偶然性が、私にとって絶対的であるように、あなたにとってもそうなのだ、ということを認め、受け入れることが、この「物語の排除」への回答であるように思えます。それは浸食し合うような関係にあるのではなく、並置されうるような関係にあるのであり、それを可能にするのが共通言語であり、具体的には生活をする、ということでしょう。はじめから私的言語は不可能である(つまり沈黙している)とともに、それは場所をもたぬものなのですから。場所をもたないものはそれを受け渡すこともしないのです。無という存在、無という存在のあり方を見つめることが、私にとって必要なのだと思います。

(2002.8.30)

 

あひるの書斎

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