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私の言う「器用仕事」というのは、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」※1からきている。近代科学の専門的な知に対し、すでに日常にある、ありあわせのものを用いて思考する知のことを、彼はそう呼んだ。
私の使い方は、もちろんそんなに深いものではない。ただ単に専門的でない方法で何かに取り組むことを意味している。「素人仕事」と言った方がいいかもしれない。
ある時、ふと日本の伝統的な文化にふれたいと思ったとする。たとえば、和歌を詠む、というような。しかし何やらそこにはすごくやっかいな感じがただよっている。そこで私は思うのである。何かまねごとのようなことから始めようと。
まず私は自分が和歌そのものとは別に、その現代文解釈のようなものにもひかれていることに気づく。たとえば、
「から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思う」なら、
「馴れ親しんだ妻が都にいるので、はるばる来た旅路をひとしお悲しく思うことだ」※2というような。
そこで私はまずこの解釈文の方から作ってみようと考える。たとえば、
「今日という日も無為に過ぎて行った。しかし夕日がやけに美しい」。
そしていつの日か和歌らしいものができるようになったらこれを歌にしようと思うのである。むろん、こうした習作は次のステップへの土台となるもので、後から考えるとほとんど何の役にも立たないのであるが、土台というのはそういうものであろう。
また、日本画が描きたいと、強く思ったこともある。本屋や図書館に行くたびに日本画の本を立ち読みしたり、借り出したりしてイメージする。メモをとる。そして、画材屋で値段をチェックし、これは自分の手には余るな、と思って別の方法をとることにする。そこで私が手にしたのがテンペラである。これはずっと安い。メディウムには卵を使うが酢と防腐剤を入れて冷蔵庫で保存すればいいから膠(にかわ)のようなやっかいなものもない。少しめんどうなのは支持体だが、木製パネルはあまり高いものではないし、石膏を指示通りに溶かして塗ればいいから失敗することもない。こうして私は何か日本画に少し似ている(けれどかなり違う)画材を手に入れる。描法もまた本屋や図書館や展覧会で学ぶ。決してひとに訊かない。ひとに訊いてわかるような話は、自分で調べればわかると思うからである。そしてひとに訊いてもわからないような話は、もとより訊いても仕方がないから訊かないのである。
妻がピアノを教えているので、貧乏なのにピアノをはじめ楽器がいろいろある。はじめは珍しかったので、妻の教えているこども用の楽譜をまじめに練習していたが、やがてもっとうまく鍵盤を弾く方法を思いついた。適当に楽譜など見ずに指のおもむくままに弾くのである。案外これがうまくいったので、今度はそれを少し楽譜に直すことにした。これはもっとうまい方法に思えたのでまだこれを延々と続けている。だから私はひとの書いた曲をきちんと弾いたことがない。そして、すべてこんな調子なのである。
器用仕事のいいところは、情熱が冷めないうちにある程度の成果を手に入れることができることにある。その反面、わるいところは、目標設定が低いところにあるので簡単に達成できてしまい、自己満足に終わってしまう可能性が高いところにある。しかしある程度目標が達成できたら少しがまんしてもっと高い目標へと努力すればいいわけだ。そしてそれは全くの自由なのである。
ギリシア人の「自由」は、近代人のそれと著しく異なり、必然からの自由を意味したそうである※3。われわれが生活していく上での生物としての条件、すなわち、食べるために働いたり、快楽を得るために汲々としたり、名声を得るために政治活動をしたり芸術作品を作ったり、争いごとが起こらないために警察組織のようなものを作ってそのひとたちに支配されていたりというのは、彼らにとっては不自由な状態だったのである(そしてそれは「家族」の中に閉じ込められていた)。反対に自由というのは、そうしたものから解放され、自分の身体を活動させておくためにあれこれ忙しくしたり、気をもんだりせず、ひとを支配することもひとに支配されることもないということだったのである。
私は自分が、器用仕事や素人仕事と呼んでいるこれらのことがらに何より熱心に取り組んでいることの理由が、長い間よくわからなかった(他にもよくわからないことは多いが)。勤め人をはじめ、普通の人々が仕事をしている時間にひとり野山を歩いて絵を描いたり、簡単に言えばお金には全くならない、それどころか出ていくようなことばかり次々と始め、それが将来お金になったらと思うよりはそれを商売にしたくないと望んでいる。むろん、そうした暮らしをしているので経済的にはとても不安定で、将来の蓄えは今のところ何もない。それでも年々、これでいいと確信にも近いものを持っていくのである。
以前なら、それが仕事だからととりあえずは思っていたかもしれない。それが仕事だから熱心に取り組んでいるのであって、お金になるならないは関係ない。しかし、近代人にとって、お金にならないことと仕事くらい結びつけにくいものはないだろう。それが長年の私の胸のつかえだった。なぜなら私も近代の作り出した厚い層の上に生きている、まぎれもない近代人のひとりなのだから。しかし、それは直感的のはわかっていたことなのだ。仕事とお金、すなわち人間の自由な活動と経済活動とは、本来全く別のものなのだ。前者は個人に属し、後者は社会に属するものなのだ。そしてまぎれもなく器用仕事というのは、社会の要請に基づき専門的な技術をもって行われる賃仕事ではなく、個人が自由な意思にもとづいて行う創造的な活動を意味しているのである。
Atsushi Kadowaki 2001.6.2
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